武生市合併50年を顧みて

 

1、   今立郡味真野村から武生市

─合併前後の動きと経過─

 

昭和31年9月30日、味真野村は武生市に編入合併しました。それから50年が経過しました。

鞍谷川、文室川の2つの川がつくった扇状地に位置する味真野村は、古代から歴史の薫り高く、商業・工業・農業で独立村としての態勢が整っており、単独で存続していこうという意見や近くの粟田部町、岡本村と合併すべきだという意見などがありました。

しかし、10万都市を目指し躍進している武生市と合併し、時代に即した広域的な行政による味真野の発展を考えるべきだという意見に落ち着きました。

9月19、21日の両日、上山孫左衛門味真野村長、清水作右衛門助役らが、「味真野村役場は出張所として永久に保存する」など20項目の合併条件を市に提示して合意文書に調印しました。

9月25日味真野村議会で合併を議決、武生市編入合併が正式に決定されました。10月1日午前10時半から、味真野中学校で村民ら約200人が出席して今立郡味真野村の解村式が挙行されました。

当時(昭和30年)の人口は4943人でした。

 

 

2、   昭和31(1956)年〜昭和40(1965)年

―高度経済成長時代の渦の中で

 

合併した昭和31年は、「もはや戦後ではない」を合言葉に経済が発展し、白黒テレビ、電気冷蔵庫、かくはん式洗濯機などが家庭に普及し生活に余裕が出てきました。

昭和35年ごろから、繊維工業が盛況になり、労働力不足から、九州など県外から集団就職者を受け入れた工場もありました。農林業において味真野特産の杉苗は好調でした。コメ作りにおいては、昭和36年に「農業基本法」が制定され、農業の機械化と兼業農家が増えていきました。味真野農協会館が落成、有線放送も開始されました。

翌年に味真野小学校に待望のプールが完成。当時日本一長い北陸トンネルが開通するなど華やかな時代でした。

しかし昭和38年の三八豪雪は大変な災害でした。武生市内で積雪2メートル31センチに及び、交通網はマヒ状態で北陸線も全面運休となり、陸上自衛隊が派遣されました。

昭和30年代は高度成長という渦の中で味真野も大きく変わった時期といえるでしょう。

 

 

3、昭和41(1966)年〜昭和50(1075)年

−歴史文化の拠点づくり−

 

高度経済成長は「いざなぎ景気」と呼ばれ、車・クーラー・カラーテレビの「新三種の神器」が登場します。「交通戦争」という言葉が生まれたのもこの頃です。

農業では耕運機・トラクターなど機械化が進み、農地の土地改良事業も昭和48年に始まっています。

注目すべきは、味真野を武生の歴史・観光の拠点とする「越前の里」づくりが始められたことです。県の指導で昭和47年度から4億6000万円の予算で着工し、昭和49年には越前の里味真野苑郷土資料館ができました。

昭和50年には県福祉施設「若越みどりの村」が萱谷町に開所されました。

この頃の味真野青年団の活躍は目覚ましく、全国青年大会演劇部門で最優秀賞を獲得し、地区では「味真野地区民対話集会」を開催するなど意気盛んでした。

昭和40年代は味真野が越前の里を拠点に自信と誇りを持って大きく羽ばたく10年でした。

 

 

4、   昭和51(1976)年〜昭和60(1985)年

―市街地・農村の環境整備―

 

昭和48年のオイルショックで、日本経済を高度成長から低成長へと転換することになります。昭和57年に土地改良事業が完成しました。

宮谷町と西尾町にまたがる約15万uの用地に5カ年計画で建設が進められていた東運動公園は、昭和51年にソフトボール専用球場、57年には全天候型の陸上競技場が完成しました。

越前の里味真野苑には、国指定重要文化財「谷口家」が移築され、苑内に「万葉歌碑」が建てられ歴史・文化の拠点として、武生、味真野の「ふるさとづくり」が進められました。

味真野各地で国・県・市指定の文化財が続々と生まれました。

ただ寂しいことは、地区の人々に愛され利用されてきた南越線が 昭和56年に廃線になったことです。

五六豪雪も記憶に新しいことでしょう。

昭和50年代は不況の中でも味真野が着実に発展を遂げました。

 

 








、昭和61(1986)年〜平成7(1995)年

―地区の活性化に向けて−

 

昭和61、62年の東環状線道路や「万葉大橋」の完成によって味真野バイパス道路が開通。地区内に点在する名所旧跡に大型バスでも自由に訪れることができるようになりました。

昭和に別れをつげる64年1月7日、昭和天皇が崩御され、その年の4月12日、味真野振興に尽力された笠原武 武生市長が死去しました。

平成4年には蓑脇町の「時水」が県の史跡名勝に指定されました。

平成5年、タケフナイフビレッジの共同工房が落成。

平成7年、越前万歳が国の重要無形民俗文化財に指定されました。阪神・淡路大震災は平成7年です。

 

 

、平成8(1996)年〜平成17(2005)年

―武生の観光地としての基礎づくりー

 

桜の並木道をくぐって入学した武生第四中学校が平成8年に廃校となり万葉中学校として移転しました。

平成10年、越前の里に「万葉菊花園」、13年には継体大王と照日前の「花がたみ像」が完成。16年には越前の里郷土資料館を「万葉館」としてリニューアルし「越前の里」は一新しました。

今年、上大坪町に県立南越養護学校が開校しました。

地域の活動では、平成9年に地区民による明日の味真野の構想づくり策定委員会が「味真野物語」を策定し、地区の将来について話し合いました。

また、味真野の「万葉の里」にちなんで全国から募集している「あなたを想う恋のうた」は、8年目を迎え、毎年1万通を超す応募があります。すでに2冊の入選作品集を出版して非常に好評です。

平成10年から3カ年にわたった「味真野地区まちなか観光事業」では、文化財表示サイン・万葉歌碑設置・遊歩道などの整備がされました。

味真野商工会では、「新特産品の開発」や「全国むらおこしサミット事業」を開催したり、「万葉美術展」は今年で11回を迎えるなど多彩な活動を行っています。

武生市地域自治振興事業は2年目に入り、安治麻野コミュニティ振興会はその成果が期待されています。

 

 

7、新「越前市」の味真野として

―今立と手を携えー歴史・文化の里づくりをー

 

10月1日、「越前市」が誕生します。私たちはこれをどう受け止めたらいいでしょうか?

武生市が唱える新しい市の将来像に、合併の目標は「歴史を積み重ねながら現代に貴重な伝統を残すまちとして、また丹南地域の中核都市として、21世紀に、ひと・地域が輝く、住民主体の自立都市越前の新都を目指す」とあります。

味真野は、古くから今立とは生活・文化の交流がありました。合併を機会にさらに交流を深め、友情と理解を持って、「心の通い合う里づくり」を考えるべきでしょう。

この素晴らしい遺産のある味真野をどう生かしていくか、「明日の味真野物語」をもう一度考えてみる絶好のチャンスではないでしょうか?