1.余川町の地名変遷
文明6年(1474)大滝神社文書の「斯波政綿神領寄進状」の中に「与河郷」で出ている。
又、
これら古文書の記録から「与河郷」「鞍谷餘川庄」「余河之郷」「餘川村」「余川村」とかわり、明治21年まで「余川村」であったと思われる。明治22年の市町村発布により「味真野村大字余川」と変わり、昭和31年9月30日の
2.余川町の開村と由来
@余川(現南余川)について
源義朝が「平治の乱」(1159)に敗れて東国に走り、再興をはかろうと家臣の尾張国 野間に宿ったとき、これに従っていた渋谷金王丸は、義朝が平家の恩賞に心が迷った家臣の長田忠致に殺されたので、余川まで逃れてきた。
渋谷金王丸は余川に居を構え、その子孫が繁栄して一村となったのが余川であるという。よって村人は、一村皆渋谷の姓を名乗っていると伝えられている。
余川にはかって八幡神社(祭神応神天皇)祀り、明治41年の味真野神社合祀まで護られてきた。神社跡は56字に在り現在も堂の講で管理されている。拝殿は五分市町の椿原(蓮生寺所有)に昭和31年に譲り現存している。
A境谷について
文化12年(1815)の「越前国名蹟考」に「鯖江領余川村朶方山、帆谷、絵図記塩谷」とあり、「朶方山、帆谷」とは余川村(南余川)から分れ出た村の意味である。
塩谷とは、「塩谷、方山」と並べられているところから現在の境谷のことと考えられ、「塩谷」が「境谷」に変化したのは、塩谷の一部が桧尾谷として分村し、塩谷が桧尾谷との村境になったからであろうといわれている。
境谷の地名は「味真野通誌」の味真野村図には、境谷を「余川の一部、酒谷」と記してあり、境谷に多い酒田姓の「酒」も境谷の「境」に由来するものと思われる。姓が「酒谷」とならず「酒田」となったのは、隣村方山の坂田姓にあやかったと思われ、片山の坂田氏は近江国坂田郡の出身で、宇治川の先陣で有名な佐々木高綱と同族の名門といわれている。
境谷の神明神社には、平安中期( )の千手観音菩薩立像(H8福井県文化財に指定)が安置されており、単純に考えると平安中期にはすでに開村していたと考えられる。
B方山について
「方山」とは方側に山を抱えた土地といわれ、前述の「越前国名蹟考」では、方山は余川村から分れでた村となっている。ところが、「味真野村誌」(明治39年刊)には「方山は、往古小山田邑と称せるより推せば、小山に属せるものなるが如し」とある。片山と同様南小山にも佐々木高綱の子孫といわれる家があり、方山が南小山に属していたとの一説もある。
方山にはかって小山田神社(祭神受 命うけのりのみこと)と藤原神社(祭神藤原道真)があった。小山田神社に祀られていた「聖観音菩薩座像」(平安後期作と推定)が味真野神社に安置されており、この頃すでに片山は開村していたと思われる。
3.境谷に小学校
明治時代の味真野地区には、4つの小学校があった。その一つの「致道小学校」は、余川・桧尾谷・池泉の3村共同して、明治9年に境谷に創立した。明治12年に池
34年間続いた「致道尋常小学校」は、明治42年に他の「清雅・合志・月進尋常小学校」の4校と統合されて、「味真野尋常小学校」を開校し、その後昭和4年に本校が現在地池泉に移転増築され現在に至っている。
4.余川町の現代の大変革
余川町は戦前戦後を通じて、稲作と養蚕・杉苗の生産が主な産業であった。農家は耕作面積が少なくほとんどが小作農家で、昭和23年の農地解放により農地は自作農化されて、農家の生産意欲と栽培技術の向上で、収量増および米価の上昇で豊かになっていった。
昭和30年代には、肥料や農薬が潤沢に出回り保温折衷苗代や大作り農家では耕耘機を使うようになり、徐々に機械化の兆しが見え始め杉苗生産もほとんどの農家が行い盛んであった。
昭和36年の農業基本法施行により、昭和40年代になると北日野地区では圃場整備事業が始まった。昭和41年に余川町でも圃場整備の話が持ち上がり、アンケートを取ったが意見半ばで実施には至らなかったようである。
昭和46年頃になると味真野地区全体で圃場整備の要望が出て、余川町でも数年の準備を経て昭和48年に県営圃場整備事業が開始された。余川工区(40余ha)の工事は、昭和49年に開始され昭和52年に面工事が全部完了して機械化が徐々に普及し始めた。
昭和49年には福井県により「越前の里味真野苑」を小丸城址周辺に計画したが、土地買収に難航し候補地を探していた。当時の区長役員は、土地所有者の協力を得て区で準備委員を作り余川町に誘致して、建設予算を流すことなく年度末ぎりぎりに「郷土資料館」が建ち現在の越前の里味真野苑の基礎を作った。
各垣内には「お道場」があり、仏様を祭り総報恩講や堂の講の催し、また各種集会などの会場として各垣内それぞれに利用していた。公的には、片山道場は余川町の総会会場として利用され、南余川道場公民館は、余川土地改良区事務所および余川土地改良総会会場として利用されてきた。
しかし、いずれも狭く圃場整備を機会に余川町共有の土地を県道沿いに作り、昭和56年より3回の臨時総会を開催してようやく決議を取り、昭和58年に「余川町生活改善センター」を区民の寄付金と市補助金で建設し、以来今日までいつでも気楽に使える施設として、町内の総会会場を始め各種団体等の集会の場・研修の場・憩いの場として、年間を通じて活用され活性化推進の拠点となっている。境谷道場は、建物の老朽化により平成5年に取り壊され、仏様は善照寺に預けた。
一方、余川町の背骨となっている県道菅生武生線(県道バイパス池泉〜余川橋間)も、道路用地を圃場整備事業の共同減歩方式で行い、昭和60年に仮舗装の状態で利用できるようになった。余川橋〜鞍谷橋間の道路用地は買収方式で行われ、池泉から鞍谷橋間の完成は平成4年11月である。
鞍谷川改修については、区の支出記録を見ると、大雨のたびに用水取り入れ堰が流失し、1本橋も流され、堤防の破堤や溢水で水田が土砂で埋まるなどの水害が、数年間隔であったようである。蛇行のきつい桧尾谷境〜片山間の最初の鞍谷川1次改修は酒田彦兵衛氏村会議員(S26年頃)に県道沿いに改修されこの上流部の水害はなくなった。しかしその下流部は水害の危険がいっぱいで、鞍谷川全面改修を沿線関係者の要望により実施されることになり、余川町地係の改修工事は昭和56年より始められ、平成4年に完成して現在の鞍谷川となり、以後1度も水害は起きていない。
以上の事を見ると、昭和40年代後半の圃場整備事業を契機に余川町は大きく変革している。水田は整形されそれぞれの田は農道付で用水や排水も整備されて非常に使いやすくなり、新しい県道は広くまっすぐになって便利になった。鞍谷川も掘り込み河道に拡幅改修されて水害の心配も少なくなり、地形的にも便利さにおいても大きく変革した。
また、環境面では越前の里味真野苑や万葉菊花園が新設されて、味真野地区の文化観光の拠点となり、地区の中心的存在で誇りに思う。また町民がいつでも気楽に使える余川町生活改善センターが新設されて、町内は圃場整備事業からの昭和の大変革で大きく発展変貌を遂げた。
この大変革は、歴代の区長さんや役員さんの先見の目と大変なご苦労、及び区民皆さんのご理解ご協力の賜物である。
5.余川町の現況と展望
余川町の戸数は数十年来50数件と変動がなかったが、平成5年に万葉団地が造成されて戸数は徐々に増加して、平成17年には戸数81戸(旧町内51個、団地30戸)農家組合員数40 戸総人口341名と味真野地区21町中6番目の町内である。
町内は4垣内に分散しているが、各垣内の道路状況はほぼ整備も終わっている。
懸案であった境谷の治山堰堤工事(H16〜H18 完成事業費4千9百万円)や片山の急傾斜地対策工事(H17完成事業費3千5百万円)も、平成16年7月18日の福井豪雨を契機に完成し、安心して暮らせる環境になった。
南小山と万葉団地上流部への暖越川砂防堰堤工事の計画は、現在武生土木事務所により鋭意準備が進められている。施設予定地には余川・南小山ともに区共有地があり、難しい点もたくさんあるが、後世のために皆さんのご協力を得て是非とも完成させ、安全で安心して暮らせる環境となるよう努力しなければならない。
余川町地係には、味真野地区の文化・観光の拠点である「越前の里味真野苑」や「万葉菊花園」、「タケフナイフビレッジ」の中心施設があり、歴史ある土地にふさわしい環境となった。越前の里資料館の「万葉館」も平成16年にリニューアルされ、今、万葉菊花園「ガラスハウス」内の再整備工事が行われている。これらの完成で観光客もますます増え、余川町も共に発展することを願っている。
最後に、私たちが先人から受け継いできた伝統や行事を守り、子供たちに伝えていくことも大切な使命である。また、新規転入者との融和を図り、老若男女各種団体とも連携して、町ぐるみで将来を担う子供の育成と隣近所の融和で明るい街づくり、及び余川町の活性化発展に皆が力を出し合い誇りをもって良き故郷を創ろう。
(余川区長 渋谷 廣、話を聞いた人:渋谷一郎、三田村一男、三田村公太郎)
参考資料:「味真野通誌」(明治42年刊)、「味真野の名刹と遺跡、伝記」(昭和30年刊平成8年改訂版)、「ふるさと味真野」(昭和54年刊)、「あじまの再発見」、「味真野小学校記念誌」等。