府中西街道(通称馬借街道)は、武生の市街地から西の方へ、馬塚〜広瀬〜当ヶ峰〜大阪峠〜下中津原〜湯谷〜中山〜今泉までの15qの街道をいう。
武生から幾内に通ずる道としては、木の芽峠と栃の木峠があるが、いずれも南条の険しい山々を越えなければならない。しかし武生から西へ向かう街道を利用して河野海岸に至り、そこから船で敦賀に出る海上七里のコースをとれば、山坂の苦労は少なくてすむ。したがって、武生に国府が置かれていた古代から、西街道と呼ばれるいくつかのルートが開かれた。とくに府中馬借街道は、河野浦が北前船で栄えた江戸時代をピークとして、北陸と幾内または太平洋側と結ぶ物資輸送路として重要な街道であった。広瀬、湯谷には宿場があり、山内馬借仲間が組織され、沿道の村々は加賀の輸送や往来でにぎわった。また街道には蓮如(1415−1499)や真盛(1443−1495)遺跡が伝えられており、天正3年(1575)織田信長(1534−1582)が越前の一向一揆を攻めたとき、明智光秀(1528−1582)羽柴秀吉(1536−1598)の軍勢が浜手(河野方面)から府中(武生)へ攻め入った道でもある。街道は道幅4bの道幅で、山の斜面を巧みに迂回してつくられ、途中には石畳、水飲場、排水溝、石仏(中世)、石碑、荷直し場などがあり、馬借街道としての面影を残している。
※毎年年3回、神山地区民にて整備され、イベント事業を開催しております。 |
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