神山ぶらり歩き
   馬借街道(府中西街道)         史跡 (市指定昭和56年11月1日指定)
府中西街道(通称馬借街道)は、武生の市街地から西の方へ、馬塚〜広瀬〜当ヶ峰〜大阪峠〜下中津原〜湯谷〜中山〜今泉までの15qの街道をいう。
武生から幾内に通ずる道としては、木の芽峠と栃の木峠があるが、いずれも南条の険しい山々を越えなければならない。しかし武生から西へ向かう街道を利用して河野海岸に至り、そこから船で敦賀に出る海上七里のコースをとれば、山坂の苦労は少なくてすむ。したがって、武生に国府が置かれていた古代から、西街道と呼ばれるいくつかのルートが開かれた。とくに府中馬借街道は、河野浦が北前船で栄えた江戸時代をピークとして、北陸と幾内または太平洋側と結ぶ物資輸送路として重要な街道であった。広瀬、湯谷には宿場があり、山内馬借仲間が組織され、沿道の村々は加賀の輸送や往来でにぎわった。また街道には蓮如(1415−1499)や真盛(1443−1495)遺跡が伝えられており、天正3年(1575)織田信長(1534−1582)が越前の一向一揆を攻めたとき、明智光秀(1528−1582)羽柴秀吉(1536−1598)の軍勢が浜手(河野方面)から府中(武生)へ攻め入った道でもある。街道は道幅4bの道幅で、山の斜面を巧みに迂回してつくられ、途中には石畳、水飲場、排水溝、石仏(中世)、石碑、荷直し場などがあり、馬借街道としての面影を残している。
 ※毎年年3回、神山地区民にて整備され、イベント事業を開催しております。
馬借街道地図

街道の写真

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茶臼山古墳群(県指定1953年3月19日)
 武生市沢・岡本・千福の各町にまたがる独立丘上に所在する、約60基からなる古墳群。
  南頂部に位置する円噴は径約60mで、葺石を備える時期未詳の首長墓である。
 北部には後期の横穴式石室噴が群集するが、そのうち1号噴は1950年(昭和25)の発掘調査で前〜中期古墳と判明。
茶臼山古墳写真

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池ノ上善光寺
善光寺写真   当山は浄土宗の名刹にして建久6年(1195)尾州の定尊と云う僧が信濃善光寺に参籠中、夢のお告げにより金銅で御丈一尺五寸の一光三尊阿弥陀如来を鋳造し奉り、越前赤坂(福井市)に七堂伽藍を建て安置したが、兵乱のため府中(武生市)尾張守高経の城へ移し、府中の城を新善光寺と名付けた。
 しかし城は新田、足利の戦乱で落城したので城に大西山正覚寺を建立、二代良信上人は戦乱を避けて応永19年(1412)に池ノ上に草堂を建て如来像を移し奉り国家安全を祈る。戒壇めぐりがあり、如来像の真下にある

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  恩  沢  池
 当時池ノ上は和泉守西尾候の采地であり、戸数百有余、水田40余町歩あり、谷間のあちこちに池があり、雪水をため夏の灌漑に備えました。
 しかし溜池が小さく、数日の日照りを防ぐ程度で、干害が相次いだ。農民は干害に苦しみ、代官にその窮状を訴えた。
そこで、119代光格天皇の文化5年に2つの池を1つに大きくし、その後天保5年の春、再び開拓害にあった。
 数ヶ月をついやし、ついに現在の池を完成、田にくらべ水量数は十分となり、以後干害はなくなった
 こうして官民一致協力し完成した、汗の結晶であるこの池を記念し恩沢池と名付けた。
恩沢池写真

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  森林スポーツ林道(昭和51年完成
         −池ノ上町ー

   森林スポーツ写真  フィールドアスレチックスがあり、美しい自然の中で、のびのびと遊べる施設です。
  春には藤の花が咲き、家族連れで楽しめます。
森林スポーツ林道の地図

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