紫式部と武生(たけふ)

 

    紫式部像(武生市の紫式部公園)

○紫式部の越前下向

『源氏物語』の作者として有名な紫式部が、都を離れて越前の国に向かったのは、長徳2年(996年)の夏であったとされています。官途から遠ざかっていた父の藤原為時が、春の除目で帝に文を奉り、やっと大国である越前の国守に任じられ、式部はその父とともに国府があった現在の福井県武生市にやってきたのです。式部が生まれたのは、天延元年(973年)とする説が有力なようですが、それに従えば、23歳のころということになります。

『紫式部集』に収められた和歌によると、彼女は当時たった一人の姉を失い、同様に妹を亡くした友人と「姉妹」の約束をしてお互いを慰め合っていたところ、式部が越前へ向かうのと同じ時にその友も筑紫へ向かうこととなり、二人で別れを惜しみながらそれぞれの地へ下って行ったようです。

 

北へゆく雁のつばさにことづてよ雲の上がきかき絶えずして

(北へ向かう雁のつばさにことづけて下さい。「私」あての手紙の上書きを絶やすことなく。)

 

行きめぐり誰も都にかへる山いつはたと聞く程のはるけさ

(遠く離れた国々をめぐり歩いても、やがては誰もが都に帰るのでしょうが、「かへる山」「いつはた」というあなたが向かうお国の地名を聞くにつけても、はるか先のように思われてしまいます。)

 

前の歌が紫式部のもので、後の歌は友人の返歌です。「かへる(鹿蒜・帰)」(現在の福井県南条郡今庄町)、「いつはた(五幡)」(現在の福井県敦賀市の東部)は、ともに越前の国の地名。いずれも万葉集の時代から和歌に詠み込まれていたので、式部もその友人も、越前への下向と聞いて、この二つの地名が頭の中に思いうかんだのでしょう。式部一行は越前へ向かう際、まず琵琶湖の西岸沿いを船で移動し、北端の塩津から山を越えて敦賀に入り、今庄を通って国府(武生)にたどりついたと思われます。ただ、式部の時代には、敦賀から今庄へ向かうコースについては、@敦賀から海沿いに五幡を通るか、あるいは敦賀から水津(杉津)までは船で移動し、山中峠を越えて今庄に至るコースと、A敦賀から山中峠の南方にある木ノ芽峠を越えて今庄に至るコースが両方使われていた可能性があるので、彼女が実際にどちらのコースを通ったのかは、はっきりとはわかりません。→「かへる山」と「いつはた」の謎へ

 

○国府(武生)での紫式部

式部の国府(武生)での様子を偲ばせる和歌が、『紫式部集』の中にはいくつかあります。

 

こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩(をしほ)の松に今日やまがへる

(この地でこのように日野山の杉木立を埋めるように降っている雪。都の小塩山の松にも今日は雪が降り乱れているのでしょうか。)

 

小塩山松の上葉に今日やさは峰の薄雪花と見ゆらむ

(都の小塩山の松の上葉にも、さすがに今日が暦に「初雪降る」とあるのなら、峰にうっすらと雪が積もって、花のように美しく見えることでしょうね。)

 

ふる里に帰るの山のそれならば心や行(ゆく)とゆきも見てまし

(都に帰る途中の「かへる山」の雪ならば、心も晴れるだろうかと出ていって見るでしょう。)

 

最初の歌には、「暦に、初雪降(ふる)と書きつけたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深く見やらるれば」という詞書きがあって、目の前の日野山に降り積もる雪を眺めながらも、心はやはり恋しい都に移っていってしまうという状況が描かれています。次に続く歌は、その式部の歌に対する侍女の返歌だろうと言われていますが、もしかするとこれも式部自身の作なのかもしれません。歌枕である小塩山の上品な雪景色を思い描くことで、よりいっそう目の前に降る国府(武生)の雪の重々しさはつのります。三つ目の歌は、「降り積みていとむつかしき雪を、掻き捨てて山のやうにしなしたるに、人々登りて、『猶、これ出でて見給へ』といへば」という詞書きにあるように、庭に降り積もった雪で作った雪山で、人々が少しでも式部の気持ちを晴らそうと声をかけてくれるのに、式部はたいそうそっけないことばでそれを断ります。『枕草子』でもふれられているように、都に雪が降れば趣向をこらして「雪山作り」を行い、雪を楽しむのが当時の都の貴族の習慣であったようですが、越前ではじめて味わった本格的な雪の様子は、彼女にとっては重苦しいだけのものであって、とても「楽しむ」といった部類のものではなかったのでしょう。

このように、『紫式部集』からイメージできる国府(武生)での紫式部像は、あまりこの地での生活を楽しんでいるようには見えません。ただ、この当時の越前の国が、外国との関係においてかなり重要な役割を果たしていたことは確かで、長徳元年(995年)9月にも宋人が漂着し、越前の国で応対したという記録があるようです。式部がそれに興味を抱かないはずはないでしょう。また、彼女が都を離れたのがこの越前下向たった一度だけであったことを考えれば、国府(武生)での生活が式部の意識にさまざまな意味で影響を与えたことは容易に推測できます。後に『源氏物語』に描かれるいくつかのエピソードにも、もしかするとこの越前での経験が反映されているのかもしれません。

 

○紫式部の帰京

式部が越前からふたたび都にもどったのは、長徳3年(997年)の晩秋から初冬(一説には長徳4年春)であったとされています。父為時の国守としての任期は当然まだ終わってはいませんから、父を残して単独で帰京したわけです。なぜ、彼女はそこまでして都にもどりたかったのか。それには特別な理由があったようです。

実は、式部には越前へ向かう前から言い寄ってきている男性がいました。藤原宣孝です。

 

春なれど白嶺の深雪いや積もり解くべき程のいつとなき哉

(春にはなりましたが、こちらの白山の雪はますます積もって、いつ解けるものかわかりません。)

 

水うみに友呼ぶ千鳥ことならば八十の湊に声絶へなせそ

(近江の湖に友を呼ぶ千鳥よ。いっそのことあちらこちらの湊で声を絶やさずにいたら。)

 

いずれも、宣孝が越前の式部のもとへ送ってきた文に対する彼女の返しの歌です。前の歌には、「年かへりて、『唐人見に行かむ』といひたりける人の、『春は解くる物と、いかで知らせたてまつらん』といひたるに」という詞書きがあります。「唐人」とは、先にふれた宋人たちのことを指しているのでしょう。越前の国まで宋人を見に行こうと言っていた人、つまり宣孝が、恋に対してかたくなな式部の心を解きほぐそうとしてあれこれとことばを尽くしているのに、彼女はあえて冷たい態度をとります。なぜなら、宣孝は式部よりも二十歳ほど年上で、先妻との間にはすでに数人の子どもがおり、おまけに当時、近江守の娘にも言い寄っているという噂まであったのです。後の歌には、「近江の守の娘懸想ずと聞く人の、『二心なし』と、つねにいひわたりければ、うるさがりて」との詞書きがついています。式部とて決して興味がないわけではないのに、どこまで彼を信じてよいものか迷いあぐね、わざとこのようなそぶりをしている様子がわかります。しかし、最初はこのような態度をとっていた式部も、宣孝の執拗なアタックに、次第に心が傾いてきていたのでしょう。式部が帰京を急いだ背後には、このような出来事があったのです。

結局、式部が越前の国府(武生)に過ごしたのは、一年あまり。これが短いか長かを議論しても無意味なことですが、今から1000年の昔、この武生に彼女が存在していたことは明らかな事実なのです。

 

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