松山・道後温泉紀行その1

 

 2001年の末、夏目漱石の小説『坊っちゃん』を片手に松山・道後温泉を訪れました。

 JR岡山駅から予讃線の特急「しおかぜ」に乗り換えると、列車は一路松山へ。

 瀬戸大橋を渡り香川から愛媛へと、四国の北海岸の地形をなぞるように、ひたすら西へ進むこと2時間50分。

 現在の松山市は、人口47万の四国第一の都市でした。

 

  

 松山は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の舞台として有名な街です(もっとも、小説にはどこにも松山という地名は登場してこないのですが……)。赴任地に下り立った坊っちゃんは、「……見るところでは大森位な漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。……」などと、その地の第一印象を綴る場面がありますが、現在の松山市は、人口47万の大都市。また、小説の中には「……ぞな、もし」といった方言が頻繁に登場するため、私、日野庵主人は、松山に一歩足を踏み入れればこれと同じ言葉が耳に入ってくるものと勝手に思い込んでいたものの、それも大きな思い違いでした。

 

 松山は路面電車の街としても有名です。JR松山駅前、松山市駅前、大街道、道後温泉といった市内の主要な場所は、伊予鉄道が運営するこの路面電車で結ばれていて、街の中には一両編成のかわいらしい車体が頻繁に行き交い、人々の足となっています。東の終点である道後温泉駅は、明治44年に建てられた駅舎をそのままの形で建て替えたというレトロな建物。温泉街は、この駅前から北東に広がっています。

  

 

  

 でも、愛媛の松山と言えば、やはり、『坊っちゃん』の街というイメージが強いのは事実。実際、道後温泉駅前の広場「放生園」には「坊っちゃんカラクリ時計」なるものが設置され、1時間ごとに小説『坊っちゃん』の登場人物が出てきては、楽しい音楽とともに時刻を知らせてくれます。また、道後温泉をはじめ、市内の主な観光スポットには、坊っちゃんやマドンナ姿の観光案内係の方がいて、地元のPRに一役買っていました。『坊っちゃん』=松山のイメージって、漱石というよりも、現代の我々が作り上げたのかも知れませんね。

 

 道後温泉は、その昔、白鷺がここに湧き出る湯でその足の傷を癒したのが始まりとか。その後も、古くは大国主命と少彦名命にちなむ玉の石伝説から始まって、法興6年(596年)の聖徳太子の訪問、正応元年(1288年)の一遍上人による「南無阿弥陀仏」の揮毫、寛永12年(1635年)松山藩主に封ぜられた松平定行による温泉施設の充実、寛政7年(1795年)と同8〜9年の2度にわたる小林一茶の訪問などなど、長い歴史を経て現在に至っています。万葉集にある有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな」(斉明天皇率いる百済救援の船団が出港するにあたって額田王が作ったと言われている)も、一説ではこの道後温泉に立ち寄ったものだとも。また、平安時代の催馬楽に「伊予の湯桁」というのがあって、都では「伊予の湯桁」は数の多いことの喩えとしても使われたとか(『源氏物語』に出てくるそうです)。

  

 

  

 長い歴史を持つ道後温泉のシンボルが、道後温泉本館。明治27年に建造された木造3階建てで(霊の湯棟は明治32年、南棟と玄関棟は大正13年の建築)、平成6年には大衆浴場で初めて国の重要文化財になりました。浴場は「神の湯」と「霊(たま)の湯」の2種類。2階は大広間の休憩室、3階は個室の休憩室になっていて、そちらを利用すると、浴衣が貸し出され、湯上がりにはお茶とお菓子まで出してもらえます(ちなみに私は個室を利用。名物「坊っちゃん団子」をいただきながらゆっくりと風情を楽しむことができました。個室利用は浴衣も白鷺模様になります)。屋上には振鷺閣(しんろかく)と呼ばれる周囲を赤いギヤマンの障子で囲んだ櫓があり、そこに吊された刻太鼓(ときだいこ)は、朝6時の開館、正午、夕方6時にそれぞれ打ち鳴らされます。また、東側には、明治32年に造られた又新殿(ゆうしんでん)という皇族専用の湯殿があり、昭和25年、全国巡幸の折に昭和天皇もお使いになったそうです。現在は使用されることはなく、希望すれば見学させてもらえます。

 

 夏目漱石(金之助)が、旧制松山中学の英語教師として赴任したのは明治28年4月。道後温泉本館が建てられて間もない頃でした。「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上り、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙で書き送ったということ。もちろん、小説の主人公の坊っちゃんも、毎日赤手拭いを下げて温泉に通い、「四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だ」と言われながらも、頑固に「八銭」の「上等」を利用します。ただし、漱石の頃は浴場は一種類。現在の「神の湯」だけでした。3階には漱石が愛用したといわれる個室が「坊っちゃんの間」として保存されています。

  

 

  

 漱石の友人であり俳句の師でもあった正岡子規は、ここ松山の出身です。温泉街に隣接する道後公園の一角にある松山市立子規記念博物館には、子規の直筆原稿や書簡などの貴重な資料が多数展示してあるだけでなく、明治28年、日清戦争従軍の帰途に喀血して郷里に戻った子規が、先にここに下宿していた漱石と50日余り同居したとされる「愚陀仏庵」が復元展示されているそうです。「そうです」としか言えないのは、この博物館、実は年末は休館。見学できなかったのです。残念。

 

 とは言っても、ただでは帰ってこないのが日野庵主人。おもしろいものを見つけました。博物館の入り口を見て下さい(→)。正面の門扉に「ホトトギス」の文字が読めるでしょう。これは、2階の窓の格子とともに俳誌「ホトトギス」の表紙のデザイン(浅井忠、中村不折、橋口五葉画)を写したもの。これこそ、閉館だからこそ見学できた逸品(?)。

  

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