〈読む〉という行為を通して―国語教育がめざすもの―

  三川智央

問題の出発点

そもそも私の国語教育に対する問題意識は、〈読む〉ことについての問題と密接に関わっていた。

それは、私が高校の国語教師になって間もない頃、ある女子生徒が夏休みの課題として提出した読書感想文がきっかけとなっている。「『塩狩峠』を読んで」と題する感想文だった。その年は三浦綾子の『塩狩峠』が校内の課題図書になっており、多くの生徒がこの小説を読んで感想をまとめてきていたのだが、その中で彼女の文章は一際私の目をひいた。というのも、提出された感想文のほとんどが、要約すれば「自らの命を犠牲にして大勢の人の命を救った主人公の生き方に感動し、現在の自分を省みた」という内容のものであったのに対して、彼女は全く異なる視点からこの物語に対する自己の思いを綴っていたのである。

 

物語を読み終えた時、私は言い様のない思いを感じました。そして、凄い物語だなと思いました。しかし、ただ感動したのではなく一種の残酷さを見たように思うのです。宗教への唯一絶対的な信頼は、時として残酷になり、人をも殺すものだということを。/私はキリスト教信者ではないので、主人公信夫が最初に抱いていたキリスト教に対する偏見を多少理解できます。その信夫が周囲の人々にゆっくりと感化され、信者の幾人かとの出会いにおいて、次第にこの宗教に目覚めていった過程をはっきり認識してさえ、素直にすべてに感動することはできません。現代の高校生は感動することがないとよく言われますが、そういう理由で感動できないのではないのです。私はこの物語の主題はひどく残酷なものだと思うのです。(中略)これは残酷な物語です。彼が故意に車両の前に身を投げだしたのなら、それはつまり、彼が信じたキリスト教が、彼を殺したことになると思うのです。本当ならこれは、作者が言いたいことでも、読者が読み取るべきことでもないのでしょう。ただ私は、今感じているこの物語への思いが、高校生という世代に私が感じた真実な怒りであったとして、書き留めておきたいのです。

 

確かに彼女がこの小説から〈読み取ったこと〉は「作者が言いたいことでも、読者が読み取るべきことでもない」のかもしれない。しかし、この〈読み〉は単なる誤読によって生じたものではない。高校生である彼女自身が、自己の感性で作品と接した結果、導き出された彼女なりの〈読み〉なのである。

その後、私は現代文の授業の中でいくつかの小説を扱いながら、なるべく生徒の自主的な〈読み〉を実践させるように心掛けた。ところがそれも実際には特定の方向に彼らの意識を束ねているに過ぎなかったと言える。例えば、森鴎外の『高瀬舟』の授業では、生徒の〈読み〉を深めるために、資料として『高瀬舟縁起』と『翁草』の一部を配布し、そこから作者の〈意図〉や小説の〈主題〉を明らかにしていく方法をとった。そして、授業の最後に感想を書かせたところ、確かにこの小説における作者の〈意図〉や〈主題〉の理解度は高く、それに対する自己の意見も的確に表現されていた。ところが、この感想をひと通り読み終えた後、私は大きな疑問を抱かざるを得なかった。それは、四十名もの生徒が同じ〈読み〉をしていることに対する――言いかえれば、それだけの高校生の意識を一つの方向に差し向けてしまった授業そのものに対する疑問である。

 

……喜助は一般人と考え方が違っている。普通、弟を殺した後で二百文をもらったからといって、心を弾ませるだろうか。

 

……歴史を振り返ってみると、人間やその他の生物も、より良い生活をと思うことで進化してきたのだと思う。欲求=向上心でもあるのだ。

 

この二つは、その時の感想の中で辛うじて独自の感性で意見を述べていたものだが、授業の中では、作者の〈意図〉にそぐわないこのような意見は、小説の〈読み〉としては不適格の烙印を押されて聞き流されてしまうことが多い。しかし、これらの感想が誤読によるものかといえば、決してそうではない。先程の『塩狩峠』の例と同様、むしろ自分なりの感性で積極的に作品世界と関わったがゆえに生じてきた見解なのである。そして、私が行った授業は、作者の〈意図〉や〈動機〉を作品を〈読む〉上での絶対的な前提としてしまったために、生徒の自主的な〈読み〉を深めるどころか、逆に、自己の意識を積極的に作品世界と関わらせて行こうとする態度を疎外してしまっていたのである。

2 〈読む〉という行為

私が陥っていたこのような状況は、その当時(一九九〇年代初め)の文学をめぐる状況を考えてみると、それほど特殊なものではなかったと考えられる。ちなみに、その時使用していた教科書「精選国語U二訂版」(明治書院)には、『高瀬舟』の研究課題として、「この小説で作者が取り上げている問題について、話し合い、作者の人間に対する目についても考えてみよう」「できれば作者の『高瀬舟縁起』を読んでみよう」という指示がなされている。ここには、小説を〈読む〉ということが最終的には作品の統轄者としての〈作者の意識〉を明らかにすることでなければならないと信じ込んできた教育者及び文学研究者の実態が、端的に表れていると言ってよいだろう。今あらためて考えてみると、教育者や文学研究者によって形作られたこのような固定観念こそが、学校教育という〈制度〉を通して巧みに小説の〈読み〉の〈場〉に組み込まれ、積極的な〈読み〉の行為を妨げて無機的な固定された〈読み〉に人々の意識を束縛していたとも考えられるのである。

いったい小説を〈読む〉こととはどのような行為なのか。私がここに述べたような問題意識は、当然、当時の文学研究者たちの中からも発生していた。R・バルトの「作者の死」そして「作品からテクストへ」といった一連の論文のタイトルに象徴されるような、作品を「作者」という〈起源〉に収拾不可能な「テクスト」としてとらえ、それまでの作者還元的な文学研究の在り方を組み替えていく現象が、一九八〇年代後半から一九九〇年代にかけての日本の文学研究において急速に進展していったという出来事は、そのような問題意識の存在を反映していると考えることができるだろう。しかし、「テクスト」という概念は作品を「作者」という人格的存在からひとまず引き離した点では有効であったが、実は、その概念を押し進めた先に広がっていたのは「還元不可能な複数性」という作品そのものの輪郭の存在すらも許さない言わば〈読み〉の無法地帯だったのであり、それは〈読む〉行為を活性化するというよりも、むしろそれを虚無的なものにしてしまいかねないものであった。

そもそも実際に小説を〈読む〉場合、その行為はさまざまな文化的要素に縛られている。と言うより、物理的に言えば紙の上にインクで印刷された小さなシミの繋がりに過ぎないものを私たちが文字として理解し、さらにそのページの上の文字の羅列に過ぎないものを何らかの表象としてとらえ、小説として〈読む〉ということそれ自体が、実は限りなく文化的に作り上げられたシステムにほかならないのである。その意味でも〈読む〉という行為は、社会や時代などを含めて読者が置かれているさまざまな環境や〈読み〉のシステムそのものを支配する文化的要素に常に束縛されつつ初めて可能になっていると言える。「テクスト」という概念は、このような〈読み〉の実態からあまりにも飛躍し過ぎていたのだ。

〈語り〉という概念は、そのようなテクストの状況に、〈読み〉によって築かれる作品と読者との関係を構造的にとらえる可能性を提供した。つまり、G・ジュネットの『物語のディスクール』などを援用しつつ小森陽一などによって展開された「語り論」(ナラトロジー)は、実は、「作者」という絶対的な裏付けを自らかき消したことで不安定化せざるを得なかった〈読む〉行為自体に、新たな指針をもたらしたとも言えるのだ。私たちは小説言説の分析を通して個々の作品の〈語り〉の構造を明らかにし、その構造と読者との相互的な関わりの中で生成される〈読み〉というものを明確に意識できるようになった。

ところが、この「語り論」は、人々の小説構造に対する認識を思わぬ方向に進ませかねない危険性をはらんでもいた。それは、〈語り〉という概念についての根本的誤解から発生していたと考えられる。ちなみに、小森は『読むための理論――文学・思想・批評』の「語り」の項目において、次のような解説を行っている。

 

……ある特定の言葉の運用を行う、近代小説の〈表現主体〉は、その言葉の運用の仕方の特質によって、読者との間で独自の伝達過程をつくりだす装置である。したがって、その伝達過程、つまりは語りの質が、それぞれの小説テクストにおける独自の物語言説をつくりだし、それらの関係性の中で、個別的な物語内容が読者に享受されることになる。

 

ここでは、あくまで虚構の装置でしかないはずの近代小説の〈表現主体(=語り手)〉が、いかにも人格的存在であるかのように扱われ、それが作品における絶対的存在となって物語言説を仕立て上げ、読者はその物語言説を通して先行する物語内容を一方的に享受することで〈読み〉が成立するという図式が成り立ってしまっている。つまり、本来は言説の中の仮構でしかない表現主体としての語り手が、いつしか物語内容を意識的に秩序立てて語る物語世界の統轄者になってしまい、作品の中の出来事はすべてこの語り手の意識に還元できてしまうかのような安易な誤解を、少なからぬ人々が抱くことになってしまったのだ。このような状況では、「作者」の存在が絶対視されることで〈読み〉が束縛されてしまっていた時のように、今度は「語り手」の意識によって〈読み〉は常に一元化されてしまうことになる。

私は、〈語り〉という概念が文学を考える際に非常に有効であると考えている。しかし、それはあくまで個々の作品における言説とそれを〈読む〉行為との関係の中で構造化され、考察されることで初めて優れた意味を持つ。〈語り〉の構造を考察することは、すなわち個々の言説をめぐる人々の〈読み〉のメカニズムを検証することにほかならない。〈語り〉の構造と〈読む〉こととは表裏一体の切り離せない関係にあるのだ。

冒頭で述べた〈読む〉ことについての問題も、実はこのような次元において初めて解決の糸口を見出すことができるように思う。つまり、『塩狩峠』という小説言説に対する女子生徒の〈読み〉や『高瀬舟』に対する二人の生徒の〈読み〉は、〈読み取ったこと〉が「作者」の意図や「語り手」の意識にあてはまるかどうかによって是非されるのではなく、その〈読み〉を可能にしている〈語り〉の構造の検証を通して〈読み〉のメカニズム自体の整合性を明らかにすることで評価されなければならない。

3 授業における実践

以上のことをもとに、高校における国語(特に現代文)の授業の現状を考えてみると、そこには自ずと、改善すべきいくつかの課題が見えてくる。

まず一つ目は、小説を〈読む〉ということが、最終的にはあらかじめ用意された〈特定の読み〉=〈正解〉に生徒の意識を導き、彼らにそれを押しつけることになってしまっているということ。二つ目には、小説と同様に評論においても、文章を正確に読み解くことだけに終始して、そこから生徒の意識を発展的に育んでいく努力を怠っているということだ。つまり、国語の授業の最大の課題は、この〈閉ざされた授業〉を、いかに〈開かれた授業〉へと変革していくかということにある。ここで言う〈開かれた授業〉とは、まず、小説教材においては、生徒の自発的な〈読み〉の可能性を引き出し、その〈読み〉を生徒相互の活動の中でより深めていけるような授業(そこでは自ずと作品の〈読み〉は一つではなくなる)であり、評論教材においては、本文の主旨を理解するだけでなく、積極的に自己の意見をかかわらせ、さらに発展的な学習ができるような授業のことである。

本論では実践例として、私が二〇〇一年度に福井県立鯖江高等学校で一年生と三年生を対象に行った授業を紹介し、具体的な検討の材料とさせていただく。


○『羅生門』(一年生「国語T」)の授業例

【教材】

・芥川龍之介『羅生門』(「高等学校国語T改訂版」大修館書店)

【目的】

高校の国語の授業で初めて接する小説教材である。特定の〈読み〉を押しつけるのではなく、小説のことばに沿って自分なりの〈読み〉を形作るとともに、他者の意見や考えに接することで、自らの〈読み〉を深め、小説の面白さを体験させる。

【学習活動】

第1時…作者についての解説。通読。各自で通読後の感想を書く。

第2時…〈冒頭部分〉

     冒頭における物語の状況(時代・場所・時刻・登場人物など)を理解する。

第3時…〈羅生門の下の場面〉

     羅生門の下での下人の状況を理解し、その心理を考察する。

*発問

「盗人になるよりほかに仕方がない」という考えにたどり着きながらも、この時の下人はそれを積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいる。下人が盗人になることができなかったのはなぜだと思うか?

第4時…〈羅生門の楼の上で老婆を発見した場面〉

     老婆を発見した後の下人の心理の変化に注目する。

第5時…〈老婆の前に飛び出した場面〉

     老婆の前に飛び出した後の下人の心理の変化に注目するとともに、老婆の言い訳の論理を理解する。

第6時…〈最後の場面〉

     下人の心理の変化とそれにともなう行動について考え、他者の意見にも接することで、小説全体の読みを深める。

*発問

・この小説の最後の場面に至るまでの下人の心理の変化と彼がとった行動について、あなたはどう考えるか(どのような感想を持ったか)、文章にまとめてみよう。

・最後の一文「下人の行方は、だれも知らない」は、下人のその後を読者に想像させる余地を残している。その後の下人がどうなったか、推測して書いてみよう。

*6つのグループに分かれてお互いに発表し合う(あるいは読み合いをする)。

*各グループの代表者は、自分のグループで出た意見の主 なものを全体に発表する。

第7時…(第6時の続き)

*発問

他の人の意見や考えに接した上で、あなたは『羅生門』という小説全体についてどう考えるか、文章にまとめてみよう。


小説を題材にしたこれまでの授業では、途中でグループ学習などを取り入れながらも、最終的には教師が介入することで〈特定の読み〉に生徒の活動のすべてを収束してしまう傾向があったように思う。例えば『羅生門』の授業で言えば、下人の心理の変化を〈善〉から〈悪〉への移行という二元論でしかとらえず、最終的には下人の行動から人間の持つ醜い〈エゴイズム〉を主題として浮かび上がらせるといったようにである。

私はもちろん、このような〈読み〉を否定するつもりはまったくない。ただ、これはあくまで〈読み〉の一つの形態でしかないことを授業を担当する者は充分に心得ておくべきだ。一方で、〈善〉と〈悪〉の基準そのものの相対性を意識したり、下人の行動に醜さ以外のポジティブな何かを感じ取ったりする〈読み〉を受け入れる態勢が、授業には絶対に必要なのだ。多様な形で〈読み〉が深められることこそ、小説を扱った授業のあるべき姿であると言えるだろう。そして、そのためにはまず、教師自身が〈正解〉に縛られる意識を捨てて、生徒間の相互活動の中で彼らが何を考え、どのような思考を行っているかを丁寧に観察することが重要になってくる。


○『癒しとしての死の哲学』(三年生「現代文」)の授業例

【教材】

・小浜逸郎『癒しとしての死の哲学』(「高等学校改訂版 現代文2」第一学習社)

冒頭、日本在住のあるアメリカ人ジャーナリストが書いた日本における癌告知の遅れを問題視する文章を引用し、その内容を批判しつつ、癌告知というものの背後に西欧文化(社会)と日本文化(社会)の差異を見出していく論考。

【目的】

@本文の主旨を理解するとともに、その内容に積極的に自己の意見をかかわらせる態度を育てる。

Aさらに他者の意見や考えに接することで、自己の意見をより深め発展させる糸口をつかませる。

【学習活動】

*ワークシート1

冒頭に引用されている「日本在住のあるアメリカ人ジャーナリスト」の意見について。 

Q1 最初この意見を聞いた時点での率直な感想として、あなたはこの意見に共感(賛成)しますか、それとも共感(賛成)しませんか?

Q2 Q1のように答えた理由を、自分の考えや感想を整理しながら、なるべく詳しく書いて下さい。

*3人ずつで読み合いをして、互いの意見に対してコメン トを書き込む。

*ワークシート2

【ワーク@】 

本文全体を読んだ上で、筆者の考えに対する自分の立場を整理してみよう。

Q1 筆者の考えの中で共感できる(肯定できる)のはどのような点ですか?

Q2 筆者の考えの中で共感できない(肯定できない)のはどんな点ですか?

【ワークA】

 この評論文を参考にして、「癌告知」や「文化の違い」といった問題について、自分の考えを書いてみよう。

*5〜6人ずつのグループに分かれて意見交換をし、その上で感じたことをコメントする。


評論文の授業は、教材となる文章の用語や内容が難解であるほど、教師主導の一方的な展開になりがちであり、文章を読解する(=筆者の意見を理解する)ことでその目標を達成したと考えがちであった。そしてこのことは、読解にこだわるあまり、生徒に各自の意見や考えを発展させる機会を与えなかったり、教材から読み取った筆者の意見や考えを絶対視させてしまい、批判的に〈読む〉態度を育てないというような弊害をもたらしてきたと言える。

評論文の授業においては、読解の正確さは当然大切ではあるが、それのみに過剰な重点を置くよりも、文章を通して生徒がどれほど各自の問題意識を深め、自己の考えを発展できるかに重きを置くべきではないか。授業を通して生徒の意識さえ深まれば、他の様々な文章へと繋がる発展的な学習も期待でき、読解力も自ずと身に付くことが期待できるのだから。

4 課題と展望

特定の〈読み〉に導く小説の授業から、各自の〈読み〉を深める小説の授業へ。正確な読解のみを重視した評論文の授業から、各自の問題意識を深める評論文の授業へ。私がここで国語の授業について言及してきた内容は、言葉で示せば簡単なことだが、そこには言うまでもなく多くの課題が残されている。

まず、授業自体がこのような転換を果たしたとしても、学校教育というシステムの中で機能しなければ継続は不可能だ。その意味で忘れてはならないのが評価の問題だろう。先程紹介した授業の実践とともに、私はこの評価の問題についてもいくつかの試みを行ってみた。

一つは、学習活動そのものを評価するというもの。『羅生門』や『癒しとしての死の哲学』の授業で使用したワークシートを回収し、生徒各自の取り組み具合を点数化することを試みた。またもう一つは、テスト問題そのものを生徒の思考を問う形に工夫するというもの。三年生の現代文で行った森鴎外『舞姫』(「高等学校改訂版 現代文2」第一学習社)のテスト問題では、次のような出題を行い、採点の際に特定の内容を○にするのではなく、@具体的な根拠が論理的に記述され、Aその内容と「手紙の内容」に整合性があれば点数を与えた。

Q 本文中の「……余は母の書中の言をここに反復するに堪へず、涙の迫り来て筆の運びを妨ぐればなり」という部分について、ここには書かれていない母の手紙の内容はどのようなものだったとあなたは考えるか、自分がそう考える根拠を示し、詳しく述べなさい。

また、同じく三年生の現代文で行った黒崎政男『チェスでヒトは敗れたのか』(「高等学校改訂版 現代文2」第一学習社)のテスト問題では、次のような出題を行い、これも採点の際には、「正しくない」という立場のみを正解にするのではなく、あくまでどちらの立場であっても、@そう考える理由が論理的に記述され、Aそれと選んだ立場に整合性があれば点数を与えた。

Q 次の意見は正しいか正しくないか、あなたの立場を明確にした上で、そう考える理由をわかりやすく説明しなさい。

 「数年前に某家電メーカーが発売した犬型ロボット 『アイボ』は、人間の働きかけに応じて本物の飼い犬のように多様な反応を示す。『アイボ』には、人間と同じような知能が備わっていると言える。」

しかし、こうした評価に関する試みも、学習活動の評価ではあまり個人差がはっきりしなかったり、思考を問う形の出題は採点基準などの設定が難しく、複数の教員間に共通理解を得ることが難しいなど、実際には数多くの問題を抱えている。

ただ、このような目前の課題につまずいて、これからの国語教育の方向性を真剣に考え、試行することを教師自身が諦めてしまえば、時代の波の中でいずれ国語の授業は形骸化し、その意義を失ってしまうだろう。実際、高等学校で二〇〇三年度から実施される新教育課程では、国語の授業の中で従来より格段に会話や表現の分野が重視されている反面、文学教材を〈読む〉ことについては、これまでより軽視される傾向にあることが否めない。これは、価値観の多様化へと向かう急速な社会の変化の中で、これからの時代には文学的な読解能力よりも実用的なコミュニケーション能力の方が重要だとする世論を受けての改革だが、そもそも、このような世論を生み出してしまった背景には、実際に学校現場で授業に携わってきた国語教師や教育研究者の怠慢や思い違いがあったことも確かだ。〈読む〉ことの意味を取り違え、〈特定の読み〉=〈正解〉に導く授業を追求していたのでは(それがいくら誠実な努力であっても)、価値観の多様化を前にして次第に〈読む〉行為は力を失い、文学の意義も薄れてしまうのは当然だと言えよう。

大きく社会が変化する今だからこそ、再度〈読む〉という行為を見つめることで、国語教育の方向性を探ることが大切なのではないだろうか。

 

注1 「作者の死」(原文「La mort de l'auteur」一九六八年発表)及び「作品からテクストへ」(原文「De l'oeuvre au text」一九七一年発表)は、ともに花輪光訳『物語の構造分析』(昭54・11)所収。前者の中でR・バルトは、「作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。(中略)語るのは言語活動であって作者ではない。(中略)一遍のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。(中略)テクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある」と述べている。

注2 R・バルト「作品からテクストへ」(花輪光訳『物語の構造分析』昭54・11)の中には、「「テクスト」は複数的である。ということは、単に「テクスト」がいくつもの意味をもつということではなく、意味の複数性そのものを実現するということである。それは還元不可能な複数性である(ただ単に容認可能な複数性ではない)。「テクスト」は意味の共存ではない。それは通過であり、横断である。したがって「テクスト」は、たとえ自由な解釈であっても解釈に属することはありえず、爆発に、散布に属する」とある。

注3 このような状況について、和田敦彦は『読むということ――テクストと読者の理論から――』(平9・10)の中で、「読みは自由ではない。小説はどのように読むこともできるし、どのように読んでもよいという一見ラディカルで自由そうな主張は二重の意味で極めて鈍感な思考なのだ。一つには自身の解釈がいかに歴史的に拘束されたものであるのかを感じることさえできなくなっている(「どのように読むこともできる」)という点において、一つには自身が読むことと、それを何らかの形で他者に示すことによってその解釈者が負う社会的な責任に無感覚であるという点において。つまりどのように「読むこともできる」と「読んでもよい」ということの差異に無感覚であるという点において」と言及している。

注4 花輪光・和泉涼一訳『物語のディスクール』(昭60・9)

注5 小森陽一は「語り論」に基づく一連の論文を、一九八〇年代の終わりになって『構造としての語り』(昭63・4)、『文体としての物語』(昭63・4)にまとめた。また、一九九〇年代に入ると『解釈と鑑賞』が、平成3年4月号と平成6年4月号の二度に渡って「近代文学と『語り』」と題した特集を行っている。

注6 石原千秋・木股知史・小森陽一・島村輝・高橋修・高橋世織『読むための理論――文学・思想・批評』(平3・6)

注7 新教育課程においては「国語改訂の要点」として、「文学的な文章の読解に偏ら」ないことや、「教材については、文学的な文章の詳細な読解に偏らない」ことなどが指摘されている(福井県教育委員会主催「高等学校新教育課程説明会」資料より)。

  (福井県立鯖江高等学校「研究集録」第24号;2002.3)

 

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