つれづれ日記 2000.8
2000年8月4日(金)
北陸自動車道の南条サービスエリア(下り線)で食事をしたところ、割りばしの袋にこんな句が印刷されていました。
あすの月 雨占なはん ひなが嶽 芭蕉
私、実はこの句を初めて知りました。「ひなが嶽」とは、「日野山」の古い呼び名。『奥の細道』の旅で芭蕉はもちろんこのあたりも通っていて、ひなが嶽は『奥の細道』の本文にも出てくるのですが、こんな句があるとは知らなかった……。時間があるときにきちんと調べなくては。
8月8日(火)
土曜日から昨日まで静岡に行ってきました。安藤広重の『東海道五十三次』にも登場する名物「とろろ汁」に舌鼓。本当は鞠子の宿まで足をのばして、丁子屋の「とろろ汁」を食べたかったのですが、今回は時間がなくて静岡駅のお店で我慢しました。鞠子は日本橋からスタートして20番目の宿。ちなみに『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんは、雨宿りがてらに店に駆け込んだものの、夫婦喧嘩に巻き込まれて、とろろ汁を食べ損ねてしまったとか。彼らの時代には二週間程度かけて歩いた東海道も、今は「のぞみ」でたったの2時間14分(東京〜京都)です。
8月11日(金)
昨夜、とうとう「日野庵」のアップロードに成功!やっと皆様に公開することができました。うれしくて数人の方にメールでお知らせしたのですが、さっそくお返事をいただき、その中に、「武生の古い街並みの写真なども入れるとよいのでは」というアドヴァイスもいただきました。武生は空襲の痛手もなく、古くからの風情がところどころに残っている街です。
8月12日(土)
昨日の続きになりますが、「古い街並み」で私がふと思い出すのは、東山魁夷の「年暮る」という絵です。私はかなり前に名古屋で東山魁夷展が開催されたときにはじめて実物を見ました。かなりの大作で、降りしきる雪の夜、ひっそりと眠るようにたたずむ京の街の瓦屋根が描かれています。有名な『京洛四季』という連作の最後に位置する作品です。魁夷に『京洛四季』を促したのは、「京都を描くのなら、今のうちですよ」という川端康成の言葉であったと言われています。魁夷が『京洛四季』を制作したのは昭和38年から昭和43年ごろ、康成が小説『古都』を朝日新聞に発表したのは昭和36年から昭和37年のことでした。
8月13日(日)
「文学散歩の部屋」の第一段として、「紫式部と武生」の準備を進めています。その作業の中で、『紫式部集』を読み返しながら、彼女が越前の国の国府(武生)に向かった旅のコースをたどってみたのですが、以前から気になっていた「かへる(鹿蒜)山」について、この機会に確かめてみることにしました。現在の南条郡今庄町あたりだろうということは、『奥の細道』の文章からも想像できたのですが(『奥の細道』にも「鹿蒜山」は出てきます)、今庄のどこなのかまではよくわからなかったのです。そこで、まず、地図を広げてみると、「鹿蒜山」という名は見あたらないものの、現在の今庄町新道を通って日野川に流れ込む「鹿蒜川」という名の川があることを発見。そこで南条郡出身の母に聞いてみると、新道のあたりは昔「鹿蒜村」と呼ばれていたとのこと。「かへる(鹿蒜)山」が、今庄町新道付近の山を指すのは間違いがないようです。
8月14日(月)
昨日は「かへる山」について「間違いがないようです」と書いたものの、何となくつめが甘いような気がして、今日、実際に今庄へ実地調査に行ってきました。また、「かへる山」の地理的な謎とともにもう一つひっかかることが出てきました。それは、『紫式部集』でもそうなのですが、「かへる山」が古典の中で和歌に詠まれるとき、かなりの割合で「いつはた(五幡)」という地名が同時に詠み込まれているという現象です。「いつはた(五幡)」は、今庄からはかなり離れた現在の敦賀市東部の海岸沿いにある地名。これはいったいどういうことなのか?「紫式部と武生」というテーマで始まった文学散歩ですが、かなりミステリアスな状況になってきました。……実は、この謎については、懸命な調査研究の結果(?)、いちおうの結論を得たのですが、詳しくは「文学散歩の部屋」にて。乞うご期待。
8月16日(火)
やっと「文学散歩の部屋」の第一段「紫式部と武生」が完成しました。「完成」といってもあくまで「とりあえず」です。みなさんのご意見があればどんどんお寄せ下さい。次は、第二段「『かへる山』と『いつはた』の謎」に着手しなくては……。でも、なかなか時間がないんですよね。頑張らなくては。
8月20日(日)
「文学研究の部屋」に川端文学研究会第27回大会での研究発表をアップ。6月18日に昭和女子大学で発表したのですが、事務局の田村充正さんや司会を担当して下さった福田淳子さんには大変お世話になりました。また、貴重なご意見をいただいた原善さんや近藤裕子さんにも感謝。つたない研究でも、自分の考えていることをより多くの人に伝え、そこで評価や批判をしてもうことの大切さを、あらためて感じたのでした。ただ、せっかく発表させていただいたのに、その後のフォローがまったくできていない私。もっと勉強を進めて、川端文学研究会の年報に原稿を送ろうとは思っているのですが、……怠慢、怠慢。
8月22日(火)
昨日、生徒と一緒に学校祭の催しで使う竹を近くの竹藪から切り出しました。厳しい暑さの中、大量の汗を流しながらの作業でしたが、慣れていないわりには、竹は意外と扱いやすく、作業はスムーズに進みました。そこで、ふと思ったこと。『竹取物語』の翁が竹を取ることを生業としていたのも、やはりそれだけ当時の人々の生活に「竹」というものがなくてはならない密接なものであったからなのだろうなあ……。このことを家に帰ってから同居人であるマキに何げなく話したところ、マキ曰く、「それもそうだけど、『竹取物語』の中の人々って、月の世界が別にあることを意識してたのよねえ……」。何となくかみ合わない会話ですが、私は「たしかにそうだなあ」と、この一言にかなり興味を持ちました。確かに、当時の人々には、現代人のような宇宙観があるはずもなく、まったく別の意識で「月」なるものを見上げていたはずです。そこに、どのような世界観があったのか?現代とは異なるパラダイムに興味を覚えます。きっと、古代中国の文化とも関わってくるのでしょうか。ちなみに、「竹」はここ武生市の木でもあります。
8月23日(水)
毎年恒例の「高校教育研究大会」というのが今日福井市内であって、国語の研究会に参加してきました。他校の先生方の研究発表を聞きながら、日頃の自分の努力不足を反省。とともに、以前からぼんやりと考えていたことをあらためて意識しました。それは、「国語」という教科そのものの役割は何なのかということです。当然、「国語」では、〈読む〉〈書く〉〈聞く〉〈話す〉という力を養うのですが、それは「ことば(文字)」の次元の問題であると同時に、常に「思考」の次元の問題でもあります。すると結局、「国語」の授業は、現代文にしろ古典にしろ、「ことば(文字)」を媒介としてさまざまな「思考」を実践する〈場〉であり、その意味で社会のあらゆる分野に開かれているということになります。「国語」というより、むしろ「言語文化」あるいは「言語思考」といったニュアンスでその役割を考えてみた方が、私としてはしっくりくるように思うのですが……。
8月26日(土)
夏休み最後の土曜日、以前から訪れてみたかった上中町の熊川宿に出かけてきました。熊川宿は、若狭と京都を結ぶ旧街道、いわゆる若狭街道の宿場町として栄えた所です。数年前に国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定され、地元の人々が協力して昔ながらの街並みの保存に力を入れています。街道の脇を流れる水路と、休憩に立ち寄ったレトロな喫茶店が印象的でした。ちなみに今回は、同じく上中町の名所である瓜割の滝と、三方町に新しくできた縄文博物館にも行ってきたのですが、詳しい様子は同行したマキが彼女の部屋で公開するそうですので、お待ち下さい。(いつになるかはわかりませんけどね。)