〈現象〉としての読み―川端康成『一節』が織りなすもの―

  三川智央

  1

文化の網の目の周縁部分で発生した小説のシステムや、その小説を支えることばは、いつしか強固な装置と化して網を自分の側に手繰り寄せ、その中心に君臨するようになる。小説やことばは、その網目の中で再生産され、消費され、システムは強化されていく。しかし周縁部分では、網に取り込まれながらも、そのシステムを軋ませ、波立たせる動きが再び生じ始める。その波は、結果として既存の装置に吸収されてしまうかもしれないし、また逆に網を自分の側に手繰り寄せ、システム自体の組み換えを促すことになるかもしれない。文学研究とは、そもそも、このような動きの実態を、より誠実に捉えようとする行為なのではないか。

私は以前、拙稿「相対化する〈リアリティー〉――第六次『新思潮』の川端作品をめぐって――」注1において、大正期後半の同人雑誌である第六次「新思潮」注2に掲載された川端康成の四作品注3を取り上げ、〈語り〉の構造と〈読み〉という視点から、明治期以降の近代文学において生成され絶対視されてきた小説のリアリティーの形式が、相対化されていく状況を考察した。それはまさに、文化の周縁部分で生じた「波」だったのであり、拙稿によってその一端を拙いながらも捉えることができたのではなかったかと思う。

ただ、私の中では一つの憾みも生じていた。それは、やむをえなかったことではあるが、〈リアリティーの相対化〉という地平のみを浮かび上がらせたことで、各作品を取り巻く他のファクターの多くは無視され、不問にされてしまったということである。〈テクスト〉としての作品をイメージした場合、その語源の通り、作品はさまざまな文化的要素が網状に絡み合い、交差する中で生まれ、〈読み〉という行為において具現化するものであると考えられる。従って、より誠実に作品を捉えようとした時、一元的ではない多元的な考察が必要になってくるのは言うまでもない。そして、その意味で、先程言及した第六次「新思潮」掲載の四作品の中でも、第二巻第一号(通巻第五号、大11・3)に発表された『一節』は、未完の短編でありながら注4、先の論考で捉えきれなかった部分を多く残しているように思われる。

本稿では、『一節』という作品を再度取り上げ、多元的な考察を行うことで、小説とそのことばがどのような「波」を起こし得たのかに迫ってみたい。

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まず、『一節』を考える上で避けて通ることができないのは、その小説としての構造であろう。小説『一節』は、非常に特徴的な〈語り〉の状況を有している注4

 

房代と共に住む月日の間に、室木の生活感情なり生活気分は、染め変へられてゐた。あらゆる物が新しい姿と心で写つた。父もその一つだつた。父と彼との直線な心の繋りの途中に、それを廻り曲らずには、或は透し越さずには、彼が父を見られないもの、そのものに房代がなつてゐた。父に秘密な日々を営んでゐることの自己苛責とか、房代のことを打明けた時の父の態度を案じる不安とかが、父を思ふ度に附き纏ふといふのでなく、房代と房代に面した彼の心身を一つの住居として、その中に閉ぢ籠つたままで、父をも眺めてゐたのだつた。注6

 

冒頭の言説で、〈語り〉の視点は作中人物の一人である室木の意識に寄り添い、その内面を読者の前に提示し始めるのだが、私たち読者は〈読む〉行為を通して、その〈語り〉の位相に同化しつつ、物語世界を構築し始めることになる。そして、この段階では、『一節』の〈語り〉は特定の作中人物を唯一の視点とする安定した構造を保っている。ところがその後、〈語り〉の視点は、先程まで室木の意識の対象に過ぎなかった房代の意識と、彼の友人である伊原の意識に交互に移りかわり、その隙間を、いずれの作中人物にも寄り添わない〈語り〉独自の視点からのことばが繋ぎ合わせるといった複雑な様相を呈することになる。

しかし、〈語り〉が複数の視点を通して行われる小説の構造自体は、一概に特異なものとは言えない。例えば、田山花袋の『生』注7を例にとると、この作品は老母の死をめぐる肉親たちの様子を描いたものだが、〈語り〉は基本的には独自の位相を確保しつつも、次男である銑之助の意識をはじめ、複数の作中人物の意識に自由に踏み込んでいく。この点では『一節』と『生』は同じ構造を有していると言えるだろう。ただ、ここで注意しなければならないことがある。それは、いくら構造が同じであっても、〈語り〉がそれぞれの視点において具体的にどのような働きを担うかによって、小説の性質は変わってくるということである。『生』の場合には、言説全体を統括しようとする〈語り〉の志向が強いため、作中人物の主観に基づく複数の視点が設定されながらも、それが充分に機能することなく、最終的には具現化された語り手の強引な介入によって、〈家族全体の共通意識〉が加工され、それが〈読み〉の中で現実としてのリアリティーを獲得してしまう注8

『生』のこのような状況に対して、『一節』の場合には、作中人物のいずれの意識にも寄り添わない〈語り〉独自の視点からのことばは所々に見受けられるものの、それが共通した意識を加工する方向へは向かわず、むしろ、それぞれの人物が直面している現実のズレを浮かび上がらせ、互いを相対化しつつ〈テクスト〉を織りなしていく。このことが端的に現れているのは、「父病気の手紙」を受けて須磨の実家へ向かう室木を駅注9で見送った後の房代と伊原が、伊原の家に帰る(室木が居ない間、房代は伊原の家に世話になることになっている)ために二人で自動車注10に乗り込んだ、その後の車内の場面である。

 

……伊原は、この少女の心と体の二つが、どれくらゐ大人で、どれくらゐ子供なのかが、はつきり受取れないのだつた。友人の室木と一つ家に起臥して愛人とも若い妻とも見える房代の位置が、眩しい背景になつて、此美しい少女の女性としての成長の明な図が、伊原には得られないのだつた。(中略)房代、十六と云つても、年が改まつて二十日余しか経たない一月末であつてみれば、十五と云つてよく、しかも、房代は十四の秋から室木と同棲してゐる、この少女の年齢から来る不自然と、室木が何処まで房代を体で感じたかを思ひさぐつて戸惑ふ時の伊原の神経の痛みと、少女の生涯を沈め、生涯を崩す房代の出生と生立ちは、男には爛れた誘惑である、その男になりきつたこととが、伊原の中に手を繋いだ。

 

自動車の座席に「両手を大学の制服の上に着た外套のポケツトに拳を握つて突つ込」んで座っている伊原は、閉ざされた空間の中で自分のすぐ隣に座っている房代のことを「心と体の二つが、どれくらゐ大人で、どれくらゐ子供なのかが、はつきり受取れない」存在として意識しながらも、その少女が女として室木に示すであろう姿態を妄想し、さらに彼女が「生涯を沈め、生涯を崩す」「出生と生立ち」であるがゆえに、そこに「爛れた誘惑」を感じることを禁じ得ない。表面的には、あくまで室木の友人として房代に冷静な態度を示す伊原だが、私たち読者は彼の意識に踏み込んだ〈語り〉によって、彼の見ている房代の姿と、外観とはかけ離れた彼の〈内面〉の世界を〈読む〉ことになる。

一方、房代はどうだろうか。

 

……過ぎ去る街通りの所々の灯の明暗につれて、幌の中の光にも呼吸が伝つたかのやうに微明るく微暗く、房代をつつんだ。/自動車の疾走の運動が、房代の体に附いて自然に落着きを感じさせた。そして、如何にも身が早い速力で、夕闇を運ばれてゐるとの心持は、片時として別れ別れでゐねばならないことがあらうとは、夢にも思へなかつたのに、今見送らねばならなかつた、室木の心を、柔らかく彼女の肩に乗つけて、遠い路を突つ切つてゐるやうでも、彼の肩に乗つかつてゐるやうでも、またお互、別れた地点から、盲滅法異つた方へ消え去らうとするやうでもあつた。それは、心を遠くへ静かに吸ひ行かれてゐるやうな、心の焦点を失つて音もなく拡がつて行くやうな寂しさだつた。

 

伊原と別れた「寂しさ」を感じながらも、房代の意識は、「街通りの所々の灯の明暗」と「自動車の疾走の運動」によって生じた「如何にも身が早い速力で、夕闇を運ばれてゐるとの心持」に満たされ、いつしか「焦点を失つて」しまう。房代の〈内面〉からは、伊原と共通する現実認識が読み取れないばかりか、意識は拡散し、朦朧としてしまっている。

そして、散漫化した房代の意識に輪郭を与えるかのように、この言説の後には〈語り〉独自の視点から次のことばが繋げられる。

 

……若し伊原が、穏やかに身を近づけて、極優しく、房代の神経を揺ぶらないくらゐ自然に、彼女の肩を抱くならば、房代は、彼女がその男ゆゑに寂しんでゐる室木の為めに、伊原の腕を振り払ふべきなのを気づかず、大人しく伊原に上身を傾けて倚りかかつたであらう。さうした心だつた。

  3

ここで、二人の意識の背景となっている空間について少し言及しておきたい。

自動車という空間は、大正中頃から文学の場でも注目され始め、特に昭和初期にかけていわゆる「円タク」注11が登場してくることで大衆化し、繰り返し描かれるようになる。重信幸彦氏は『タクシー/モダン東京民俗誌』注12において、夜の自動車の印象を記した久保万太郎のエッセイ注13を引用しつつ、自動車の車内が独特の時空間であることを指摘し、「自動車に乗るという密室の経験では、とりあえず自分は何もすることがなく、自動車に身をまかせるしかない純粋な時間が流れる。それは、タクシーの後部座席で、乗客がふと外貌の綻びを見せ、告白を促されてしまうような、あの微妙な雰囲気と無関係ではないだろう」と述べる。また、和田博文氏は『テクストのモダン都市』注14の中で、自動車(円タク)が文学作品に頻繁に織り込まれるようになった理由を、「体験できることと、体験の新鮮さが失われていないことが、作品に織り込みたいという欲望を文学者に喚起する、二つの条件だった。それは読者が、作品にモダニティを見いだして共感する条件だったと言い換えてもいい。/円タクのモダニティは何よりもまず、スピードに由来している」と説明し、そのスピードが恋愛に転化され、「円タクは、恋愛やエロスの舞台として使われた」とする。

大正期に新たに登場した自動車という空間は、文学の中で〈都市の夜〉〈恋愛・エロス〉といったモチーフと結び付き、大正後半から昭和初期にかけて、〈モダン〉注15感覚を表象するものの一つとなって行ったと考えられる。そして、この『一節』という作品においても、物語の基本となる時間軸は、二人(伊原と房代)を乗せた自動車が「駅前の広場から電車通りに出」た後、「お茶の水橋を渡つて、大きい病院の横を抜けて、本郷三丁目の灯の集り」を通り、「千駄木町の屋敷町」へと至る、まさに都市の夜を走り抜ける自動車の動きそのものに設定され、そこに言説化される〈房代の自我の散漫化〉や〈伊原の房代に対するエロティックな妄想〉注16といったものも、各々について見れば、いずれも〈モダン〉のセオリーに基づいて織り出され、〈読み〉を生成していることがわかる。

しかし、ここで再び『一節』の言説に戻ると、そこには表面的な〈モダン〉の図式だけではない、巧みな小説の構造が形作られていた。それが先程の〈語り〉の状況である。

伊原と房代は、客観的には、密閉された自動車の車内という緊密な時空に存在し、同じ〈現実〉を生きているはずなのだが、それぞれの視点から語り出された二人の〈現実〉は、互いにまったく異なるものであった。房代の意識が朦朧とし、自我に散漫化が生じると、〈語り〉は、さも二人の〈現実〉のズレを埋め合わせるかのように、独自のことばを紡ぎ出すのだが、「若し……ならば、……たであらう」という形で語られることばは、共通の世界を形作るどころか、逆に接近することさえ不可能な二つの世界を〈読み〉の中で印象づけることになってしまう。それは丁度、芥川龍之介の『藪の中』注17で生み出された〈リアリティー〉の感覚と共通している。

『藪の中』は、『一節』発表の二ヶ月前にあたる大正十一年一月に発表された小説だが、周知の通り、山科の駅路近くの藪の中で発見された男の死体をめぐる七人の供述がそのまま作品となったものである。この小説において、七人の口から物語られる〈現実〉は互いに齟齬をきたし、食い違っている。そこでは、〈ことの真相〉を探しあてようとする〈読み〉は阻害され、堂々巡りの徒労に終始するよりほかはない。つまり、この小説の〈語り〉が〈読み〉に強いているのは、むしろ、すべてに共通する唯一絶対の〈真実〉など存在しないことに気づくことであり、そこに新たなリアリティーを実感することなのである。『藪の中』と『一節』という二ヶ月違いで発表された二つの小説は、題材も〈語り〉の様相もまったく異なってはいるものの、小説を成り立たせるリアリティーの質という点では、非常に近い位相にあると考えられるのだ。

私は、前出の拙稿「相対化する〈リアリティー〉――第六次『新思潮』の川端作品をめぐって――」において、明治期以降の近代文学という領域において生成され、絶対視されてきた小説のリアリティーの形式――それは、特定の作中人物を唯一の視点とした〈語り〉によって構築されるパースペクティヴに、物語世界のリアリティーを求めるというものだった――の存在に論及した。が、『一節』が依拠するリアリティーの形式は、そのような特定の視点から形作られる唯一絶対的な世界の存在に疑念を抱き、むしろ、複数の視点から発生するそれぞれの世界が絡み合い、お互いを相対化していく〈現象〉そのものに事実を感じ取っていくという、新たなリアリティーの形式だったのだ。『一節』は言うならば、小説の構造そのものにおいて〈近代〉という装置が揺らぎ、新たな「波」としての〈モダン〉が生起しようとした現場であったと考えられる。

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では、以上のような小説の構造を通して〈読む〉ことができるのは、具体的にはどのような〈現象〉なのか。それを捉えるためには、室木・房代・伊原の視点から語り出されるそれぞれの〈現実〉をもう一度詳細に考察すると同時に、それらの〈現実〉を手掛かりにして、三人の関係を丁寧に解きほぐしていく必要がある。

まずは室木と房代の関係から考察してみよう。

冒頭で引用した通り、現在の室木にとっては「房代と房代に面した彼の心身」は、彼の「住居」――つまり、そこを通してしかものを眺めることのできない室木のアイデンティティーそのものとなって、室木の意識を安定させている。ところが、その「住居」から彼を投げ出す存在として彼の〈現実〉に立ちはだかってくるのが、「父病気の手紙」であった。室木の視点からの〈語り〉は少なく、室木の父との関係は彼の意識からはつかみにくいが、房代の意識に基づく言説には、「室木一家が神戸に移る前の旧居の家屋敷と、それの所在する北摂津の田舎村」とある。それを繋ぎ合わせると、古い家制度を引きずる室木の家族とそれを象徴する父の存在、そして、その家から物理的には遠い位置に居て大学に通い(友人の伊原が「大学の制服」を着ていることから、室木も同じく大学生であることが予想できる)、房代との生活を通して「家」とは隔絶した自分独自の「住居」を形作ろうとする室木の姿が見えてくる。父の病気は、嫌でも室木を「家」の秩序に連れ戻そうとする出来事であり、伊原のことば(「親父は室木の騒いでいる程、悪くないんですよ」)を通して客観的に言説化される〈父の病気を必要以上に深刻に受け取る室木の姿〉は、「家」との関わりに神経質になっている室木の意識の表れだと理解できる。つまり、この小説の冒頭で提示される室木の父の病気は、室木に〈古い家の秩序〉と〈房代との新たな生活〉のいずれかの選択を迫る象徴的な意味を持っていたということになる注18

しかし、〈古い家の秩序〉に対する〈新しい生活〉とは、どのようなものであったのか。それは房代との生活に室木が何を求めていたかを考えればわかる。再度冒頭の言説を見てみると、そこで強調されるのは、房代と「共に住む」間の室木の「生活感情」「生活気分」の変化であり、房代との同棲で彼が房代から得たものは、精神的な安定であったと言える。彼は房代に対して、制度的な繋がりや、肉体的な満足を求めているわけではないのだ。つまり、室木にとっての〈新しい生活〉とは、〈制度的な結婚にとらわれないプラトニックな愛情を基盤とする共生〉だったと捉えることができる。そして、〈プラトニックな愛情〉で結ばれた男女関係とは、『当世書生気質』注19以来、日本の近代文学の中で追い求められてきた〈恋愛〉という理想にぴったりとあてはまる注20。この意味では、室木は少なくとも彼の〈現実〉において、〈恋愛〉という理想を体現していたとも言える。

それでは房代も室木と同じ現実を生き、同じように〈新しい生活〉を体現していたのだろうか。結論を先に言うと、やはり房代は別の現実を生きていたと言える。

房代の視点からの〈語り〉をもとに、房代の世界を作品内部の時間軸に沿って並べ替えると、その最も深い部分に母(=おちか)が位置することになる。房代の母は、室木一家が住んでいた北摂津の田舎村の隣村の出身だが、房代が六歳になった冬(物語内部の「現在」から見て「十年前」)に入水自殺し、房代は「顔も覚えてゐない」。房代の意識では、母が入水したのは浅草蔵前の河岸となっていて、祖父とは房代が十四歳の春に初めて会ったことになっているので、おそらく母は郷里から上京し、東京で一人で房代を生み、何らかの事情で自殺する程に追い詰められたのであろう。自殺の理由は謎のままだが、都会の河に沈んでいった母の影は、当時、田舎から東京に出てきた女性の、報われない運命の典型だといえるのかもしれない。房代にとっては、「影のやうに死んだ」母の姿と、祖父から言われた「えらい鬼子、産みよつたもんや」ということばが、母と房代を繋ぐわずかな手掛かりであるとともに、房代の前に立ちはだかり、彼女の意識に暗い影を投げかけるものともなっている。そんな房代にとって室木は、祖父との気まずい生活から自分を救い出してくれた人であり、「十四に、秋に、白山前町の家に、新星の如く清らかに誕生したと思へ」ということばで自らの暗い影に目隠しをしてくれた人なのだ。

従って、房代にとって室木との同棲は、自己を影の部分から遠ざけると同時に、自らの過去と、そこから生まれる自分自身のアイデンティティーをも消し去る状況であったと理解することができる。だが、自己のアイデンティティーを無化し、相手の価値観そのものを無条件に受け入れる姿が、はたして〈プラトニックな愛情〉と言えるだろうか。

先程の引用部分を思い起こしてほしい。室木を見送った後の房代は、まるで何かの抜け殻のように自我を失い、朦朧とした意識のまま、自動車の疾走とともにただ漠然と寂しさのみを感じている。房代の意識からはずれた独自の〈語り〉が、「若し……」と仮定して語ったことは、房代にとってみれば、案外、真実であったのかもしれない。房代にとって必要なのは、自我の空白を埋めてくれる何ものかであり、そこに〈プラトニックな愛情〉は必ずしも必要がない。

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このような室木と房代の関係は、あくまで複数の視点から語られることばを基にして紡ぎ出されたものである。幾度も繰り返すようだが、そこには共通した唯一の〈現実〉などは存在しない。あるのは、複数の主体から生じる複数の〈現実〉であり、それが絡み合ったり、互いを相対化したりして起こる〈現象〉だけである。もし、「父病気の手紙」が届かなかったなら、表面的には、伊原の視点から「一つ家に起臥して愛人とも若い妻とも見える」と捉えられる二人の関係は続いたのかもしれない。けれども、あくまでこの二人の関係について見ても、室木・房代・伊原のそれぞれで、捉え方が異なっているのであり、常に現実は複数存在することを忘れてはいけない。そのことを再確認して、最後に、伊原と室木及び房代の関係について見てみたい。

伊原の生きている〈現実〉を具体的に捉える手掛かりは、彼自身のことばと行動の中に見つけることができる。

伊原は、例の自動車の場面で、車内の沈黙をとり繕うかのように、あるいはまた、房代と共通の〈現実〉を持つことを試みるかのように、彼女に話しかける。そこから伊原と房代の間でいかにもちぐはぐな会話が交わされるのだが、よく見ると、無意識に伊原の口をついて出てくるのは、実は、彼自身の「お袋」と「親父」のことである。また、二人が自動車でたどり着いた伊原の家は、「千駄木町の屋敷町」にある「門」と「板塀」に囲まれた家であり、伊原はその「板塀」に打ち付けられた「戸締、火の元、衛生」と字を浮かべるブリキ板が錆びてめくれているのを「気になりますからね」と言って直す。

千駄木町の屋敷町の門と塀に囲まれた家に住む伊原の家庭は、近代における知識人階級の象徴と言えるだろう注21。伊原が直したブリキ板に浮き出ている「戸締」「火の元」「衛生」の文字はそのまま、日本が近代国家たるべく明治以来の政府が進めてきた〈治安維持〉〈火災予防〉〈公衆衛生〉という国家政策に符合する。また、「昼はお袋一人ですからね」と、伊原が言う彼の母には、〈良妻賢母〉のイメージが見え隠れする。そして、そんな環境にあって「大学の制服」を身に付けた伊原は、まさに近代のエリートそのものなのだ。

だからこそ、伊原の房代に対する感情は興味深いものがある。先に述べたことの繰り返しになるが、彼は房代のことを「心と体の二つが、どれくらゐ大人で、どれくらゐ子供なのかが、はつきり受取れない」存在として意識しつつも、結局は、彼女に肉体的な〈女〉を思い、彼女の「生涯を沈め、生涯を崩す」「出生と生立ち」に「爛れた誘惑」を感じている。伊原にとっての房代という存在は、近世以来の概念である〈色〉という男女関係のフィルターを通して〈現象〉している。〈色〉とは元来、遊女との肉体関係を前提とした間柄を指すことばだが注22、房代の影の部分に性的な魅力を感じる伊原の認識には、この構図がぴったりとあてはまる。つまり、伊原は、〈近代〉という制度(=枠)に(それに無自覚である分、より深く)浸っている人物であり、結婚という制度によって成立する以外の男女関係を、〈色〉という概念をひきずってしか眺めることができない。従って、伊原が室木と房代の関係を考えるとき、そこには常に肉体的関係がイメージされているのであり、この伊原の意識は、〈近代〉という枠の中で暮らす世間一般の人々の意識にも繋がっているのである。

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伊原の住む千駄木町の屋敷が、明治維新以来形作られてきた〈近代〉という国家社会の象徴であるならば、室木が房代に、「十四に、秋に、白山前町の家に、新星の如く清らかに誕生したと思へ」と言った白山前の家は、何を予感させるのだろうか。

白山前町は、言うまでもなく白山神社との関係が深い場所であり、寺社が異界との〈境〉に位置するように、白山前も、様々な意味での〈境界〉を形作るスポットであったようだ。前田愛氏の著書『幻影の街』の中には、次のような記述がある注23

 

白山通りは白山上を境に上り坂が下り坂に切り換わる。この坂をもと指ケ谷町の方へだらだら下りに降りると、永井荷風が『おかめ笹』でその内幕を相当にどぎつく穿った白山の花街になる。明治四十五年に三業地として指定されたこの花街の裏手は、路地と路地が迷路のように入り組んだ細民街だった。(中略)本郷通りが描き出す弧線が、東京帝大、新人会、福本イズムなど、知識人のイメージを呼びおこすとすれば、白山通りの弧線は、労働者のイメージにつながる暗喩である。

 

〈近代〉が構築してきた社会の〈表〉と〈裏〉。白山前町は、まさにその境界線を意味する。そして、おそらくそれは、この『一節』という作品の最後に付け加えられた「転生」ということば注24に繋がり、室木との〈共生〉によって、「出生と生立ち」に縛られた暗い淵から生まれかわろうとする房代の人生を予感させると同時に、二人の〈新しい生活〉が、伊原に体現されているような〈近代〉という装置を組み換えていく予兆を感じさせる。しかし、作品自体の構造は、そんな単純な〈読み〉を保証してはくれない。『一節』の〈語り〉が生み出すのは、唯一の〈現実〉を相対化させる複数化した〈現実〉の存在なのであり、室木・房代・伊原のそれぞれは、互いに別の世界に向き合っている。

父の病気に直面する室木、伊原の家で彼女の母を知るという伊原の父と出会う房代、その二人に関わる伊原。作品化されることのなかった未知の部分を予測することは不可能だが、少なくとも『一節』の〈語り〉の構造が維持されるとすれば、この物語は永遠に統一された結末になどたどり着くことはできない。あくまで〈読み〉のリアリティーは、複数の〈現実〉が織りなす〈現象〉としてしか実感できないのであり、その意味では、この作品は永遠に「一節」であり続けることを余儀なくされているとも考えられるのだ。

『一節』が起こし得た「波」、それは〈近代〉の安定した小説の形式を崩し、複数の〈現実〉から生じる〈現象〉を読むことに新たなリアリティーを実感しようとするものであった。しかしそれは同時に、小説の構造の複雑化や統一された結末の滅却という状況を招くことにもなる。はたしてこの「波」が、関東大震災を経て本格化する〈モダン〉という時代感覚にどう影響するのか。昭和初期の文学の動きを捉える新たな視点がここにあるように私には思える。

 

注1 福井大学国語学会「国語国文学」第37号(平10・3)・第38号(平11・3)に発表。

注2 大正10年2月、川端康成・石浜金作・酒井真人・鈴木彦次郎・今東光の五人によって創刊された。第二巻第一号(通巻第五号、大11・3)まで刊行した後、休刊状態となり、大正12年7月に新たな編集方針で改めて創刊号が出された(川端はここに『南方の火』を発表)が、これは実質的には第七次と考えられる。

注3 『ある婚約』(創刊号、大10・2)、『招魂祭一景』(第二号、大10・4)、『油』(第四号、大10・7)、『一節』(第二巻第一号・通巻第五号、大11・3)の四作品。

注4 『一節』が「新思潮」に掲載された際、文末には「(「一」終り――「転生」の一節)」との記載があり、当初は『転生』という作品の一部分として発表されたと思われるが、その後これに続く部分が作品化されることはなかった。

注5 この点については、前出「相対化する〈リアリティー〉―第六次『新思潮』の川端作品をめぐって―」でも、かなり具体的な考察を行っている。

注6 川端の文章からの引用は、すべて三十五巻本『川端康成全集』に拠り、旧字体は適宜新字体に改めた。

注7 明治41年4月13日から7月19日まで「読売新聞」に連載。かなりの加筆訂正が行われ、同年11月に易風社から単行本として出版された。

注8 注5に同じ。

注9 大正3年12月に開業した東京駅のこと。開業時の新聞記事には、「帝都の大玄関」「東洋一の規模誇るルネッサンス式建物」(『明治ニュース事典』より)とある。

注10 重信幸彦『タクシー/モダン東京民俗誌』(平11・9)によると、「大正時代の東京の乗用自動車は、営業用自動車を中心に増加していった」。具体的には、大正元年8月に有楽町でタクシー自動車株式会社が開業し、関東大震災(大12・9)までに五七〇台の車両を有するまでに成長している。また、メーター表示によって料金を支払うタクシー以外に、メーターを持たずに運転手付きで時間貸しされる貸自動車も明治43年8月頃から営業を開始していたが、この場合はタクシーと考えてよいだろう。

注11 一定区域内を一円均一で利用できるタクシーのこと。大阪で始められたが、東京でも大正14年末頃に「東京均一タクシー会社」が営業を開始(前出『タクシー/モダン東京民俗誌』による)し、昭和初期に全盛期を迎える。

注12 注10を参照。

注13 「中央公論」(大7・9)誌上に「新時代流行の象徴として観たる「自動車」と「活動写真」と「カフェー」の印象」と題して菊池寛など総勢十四人で執筆されたエッセイの一つ。そこで久保田は、「だまって、一人、燈火を消して、闇のなかに自分のすべてをまかしたとき、そこに、孤独が返ってくる。(中略)けだし自動車は夜のものである」と記している。

注14 平成11年6月刊行。

注15 「モダン」ということば自体は、明治期の小説である田山花袋『生』(注7を参照)に、「此の頃新聞でよく使ふモダン(modern)といふ字は何ういふ意味だ……」という形で既に登場してくるが、昭和初期になると、「現代的」とか「現代風」などの意味を持つ独特の時代感覚を表現する流行語として、日本語の文脈で頻繁に使われるようになる。

注16 引用した以外の部分でも、伊原は、無意識に膝に落とした房代の手に性的な魅力を感じ、エロティックな手の表情を妄想している。このようなフェティシズムは、萩原朔太郎の第二詩集『青猫』(大正6年2月から11年7月にかけて雑誌に発表した詩を中心にし、大正12年1月に刊行)に収録された作品群にも共通する感覚であり、〈モダン〉を表象する一つと考えられるが、ここでは詳しくは触れないことにする。

注17 「新潮」(大11・1)に発表。

注18 「父の病気」が〈古い家〉と〈新しい生活〉の葛藤を象徴的に意味する例は、近代文学の中にはしばしば見受けられる。例えば、夏目漱石の『こころ』(「朝日新聞」大3・4〜8)では、大学を卒業して郷里に帰省中に病気の父が倒れた「私」は、「先生」からの遺書を受け取るが、父を置いて上京することを選ぶ。そこには〈新しい生活〉に基づく新たな物語が暗示される。

注19 坪内逍遙著。明治18年6月から翌年1月にかけて刊行。

注20 日本の近代文学における〈恋愛〉については、佐伯順子氏の著書、『「色」と「愛」の比較文化史』(平10・1)や『恋愛の起源』(平12・2)に詳細な考察がある。

注21 千駄木町は、森鴎外や夏目漱石が住んだことで有名な場所である。川本三郎氏は、その著書『東京つれづれ草』(平7・12)の中で、「下町は江戸以来の庶民の町、山の手は明治の新しい知識階層の町と色分けされていった。(中略)明治文学を代表する作家といえば鴎外と漱石だがこの二人はともに明治の新しい知識人として本郷台地、早稲田の高台に住み、小説の舞台にも山の手を選ぶことが多かった」と述べている。

注22 この点についても、注20で紹介した佐伯順子氏の著書に詳しい記述がある。

注23 『幻影の街』は昭和61年11月刊行。引用部分は、中野重治『むらぎも』(昭29・1〜7)に触れた部分である。

注24 注4を参照。

  (川端文学研究会編『川端文学への視界16』;2001.6)

 

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