つれづれ日記 2000.11-12

2000年11月5日(日)

 11月になって「日野庵」をリニューアル。「日野庵」のタイトルをGIF画像化するとともに、「授業研究の部屋」と「リンクの部屋」を新設しました。これをきっかけに、より多くの方にアクセスしていただければと思います。ちなみに、「日野庵」へのリンクは特に制限なしで行きたいと思っていますが、リンクされた方は、メールで御一報いただけると幸いです。内容についてのご意見やご感想なども、お気兼ねなくどうぞ。

 

11月9日(木)

 「授業研究の部屋」に公開授業の時の写真を追加しました。同じ高校の国語科の先生が写して下さったものです。生徒たちの笑顔もうまく撮れていて、なかなかグッドな写真です。ちなみに、二枚目の写真の男性は、私、日野庵主人ではありませんのであしからず。マイペースな同居人のマキも、ぼちぼちと「マキの部屋」を進めているようです。「涼」を求めた旅も、遠く昔の話になりつつあるのですが……。

 

11月10日(金)

 東京のクレス出版から連絡があり、「近代文学作品論集成」第T期全10巻の編集作業は、順調に進んでいる様子。拙論「『伊豆の踊子』論―〈語り〉の多重的構造について―」は、このシリーズの第6巻「川端康成『伊豆の踊子』作品論集」(2001年1月末刊行予定)に収録されます。この集成は、夏目漱石の『こころ』や芥川龍之介の『羅生門』など、中学・高校の教科書に掲載されている作品を中心に、順次刊行していくそうです。詳細については、クレス出版のホームページ(「リンクの部屋」から行けます)でどうぞ。

 

11月11日(土)

 福井市のフェニックス・プラザで行われた「漢字文化セミナーIN福井」で、「漢字の文化―国語の将来―」と題した白川静氏の講演を拝聴。90歳になって、ますます意欲的に学問に向き合われている氏の姿が強く印象に残りました。

 

椅子に腰を下ろすことなく、1時間以上にわたって漢字の成り立ちと漢字文化について話された。

 白川氏が積み上げてこられた漢字研究の成果は非常に膨大で、かつすべてが独自のもの。当初は、その自己流の解釈が受け入れられなかった時代があったとも、以前どこかで聞いたことがあります。けれど、地道な調査・研究によって裏付けられた氏の古代文字学の世界は、今や揺るぎないものとして広く認められているようです。その意味では、まさに氏によって一つの学問が成立したと言っても過言ではないでしょう。今日の講演では、漢字の成り立ちについての持説そのものも興味深いものでしたが、まずは氏の姿から、学問に向かう姿勢というものを考えさせられた一日でした。

 

11月12日(日)

 最近、文字やことばを通したリアリティーについて考えることがしばしばあります。それはたとえば、学校で受験生が書いてきた小論文の添削指導をしている時。何とか原稿用紙を埋めようと思うあまりに、ことばだけが一人歩きをしてしまうのか、表現するものが何も見えてこない文章。ことばがリアリティーを喚起しないのです。高校生だけではなく、某県知事の「しなやかな」ということばも同じようなものかもしれません。私自身、何か文章を書いている途中に、うっかりすると、自分で「これはいけないぞ」と思うことがあります。昨日の白川氏の講演は、そういう点では、文字のリアリティーということを考えさせてくれたものでもありました。文字(漢字)が生成された段階では、おそらく文字の一つ一つには、人々の生活と密接に結びついたリアリティーというものがあったはずです。私は(勝手な解釈かもしれませんが)白川氏の仕事は、文字の持つ忘れられたリアリティーというものを再び呼び戻そうとする作業であったのではないかと理解しています。しかし、文字やことばのリアリティーというのは、いったい何なのでしょうか。これが、架空の物語や小説となると、また話はややこしくなります。本来〈事実〉としての共通認識すらないものが、文字やことばの中で、今度は逆にリアリティーを持つのです。かねがね私は、文字やことばは最も古くからあるバーチャル・リアリティーだと思っています。それは、あくまで文化的システムの一つとして機能し、多少システムを組み替えつつも、これまでの人間の歴史を支えてきたのでしょう。ただ、このシステムも、永遠に続くものではないはず。映像や音といったものによって補わなければならない時代がきているのかもしれません。……どうもとりとめのない文章になってきました。吉田兼好は、もしかしたらこのような文の持つ怪しげなリアリティーとの葛藤の中で、「……あやしうこそものぐるほしけれ。」と書き綴ったのかもしれません。

 

11月26日(日)

 3年生の国語の授業はセンター試験に向けての問題演習が続いています。問題演習というと何かしら無機質で面白味のないもののように感じますが、現代文から古文、漢文までさまざまなジャンルの文章に触れることができるまたとない機会でもあります。先日も、センター試験の過去問集の中に、作家であり日本文学研究者でもあるリービ英雄氏がカリフォルニアでの体験を綴ったエッセイが載っていて、思わずその世界にひき込まれてしまいました。大学で日本文学を教える彼は、四季を超越して広がるカリフォルニアの青空に、ヨーロッパやアメリカ東海岸、あるいは日本にはない新しい文化の可能性を見ながらも、そこに違和感を感じないではいられなかったという内容です。私、日野庵主人、ハワイには昨年末に2000年問題も顧みずに訪れ、「いつかはここに永住したい」とまで思い入れている(かなりミーハーかなあ?)のですが、アメリカ本土には足を踏み入れたことがなく、恥ずかしながらこの文章ではじめてアメリカの東海岸と西海岸の気候や文化の違いを知ったのでした。で、このことを同居人のマキに話したところ、「そう言えば村上春樹も同じようなことをエッセイで書いていたと思う」とのコメント。はたしてどの本だったのか、さっそくさがしてみなくては。

 

12月14日(木)

 しばらく「つれづれ日記」をサボっている間に、季節は冬へ。ここ武生にも一昨日初雪が降りました。時雨模様がいつしか雪に変わってゆくこの時季、北陸にはよく冬の虹がかかります。どんよりとした雲がはげしく流れて、みぞれ混じりの雨を降らせたかと思うと、突然雲がさーっと切れて、蒼い空が顔をのぞかせる。このあたり特有の気候から、冬の虹は生まれます。そう言えば、川端康成の小説『虹いくたび』の中には、北陸線の車窓から見える琵琶湖の対岸に架かった虹の様子が描かれていました。冬になると、琵琶湖をはさんでそれより北の空は一面が厚い雲でおおわれます。米原から敦賀へ向かうあたりは、冬の虹が頻繁に現れる地域なのかもしれません。

    片時雨彼方の虹をながめをり         青魚

 

12月25日(月)

 学校は冬休みに入りました。とはいっても、課外授業が28日まで続くので、よく世間から言われるように「学校の先生は、休みが長くていいねえ」という状況とはほど遠いのですが……。まあ、とにかく、終業式で一区切りついて、何となくホッと一息というところではあります。で、今日も3年生の模擬試験や問題集の中から興味深かったものを二つ。一つ目は岸田秀氏の「価値について」という文章。「そもそも人間がそのために生きるに値する価値なんかありっこない。……要するに、価値というものも、わたしに言わせれば、例によって例のごとくいつものことながら、人間の勝手な幻想に過ぎないのである。/しかし、そう言ったからとて問題は解決しないことはわかっている。問題は、人間がなぜ生きるための価値というものを欲しがるかということにある。……誤った価値を信じていたから無用な被害を自他に及ぼしたのであって、正しい価値を見出し、人びとが一致協力してその価値のために尽すようになれば、理想の世界が実現すると考える人がいるかもしれないが、言うまでもなく、これこそ誤った危険な考え方である」。この文章、『続ものぐさ精神分析』に入っているというので、手元の文庫本で確認してみると、初出は「現代思想」1977年12月。23年前の文章に、あらためてはっとさせられました。二つ目は大澤真幸氏『電子メディア論』の一節。「たとえば、完全な直接民主主義が技術的に可能になったとしよう。このとき、諸個人は、どのような些細な政治的決定に関しても、またどの瞬間においても、端末を通じてその意見を表明することができる。その結果は、瞬時に集計されていく。そうなれば、――システムの全体水準でいえば――法や政治的決定は、極度に不安定なものになるに違いない。……『私』は気が変わるかもしれず、ついさっきとは異なる意見を端末に入力するかもしれないのである。そうなれば『私』という主体の(人格的)同一性ということも疑わしいものとなろう。昨日の『私』は、意見が変わってしまった今の『私』を、同一の主体と見なすことができるのか?……さらに、時間的に持続する(人格的)同一性が保持されないならば、主体がある瞬間に意志を表明する、ということの意味すらも極度に薄いものになるだろう。……電子メディアが保証する直接民主主義は、平等な諸個人の主体性の最も強力な実現形態であるかのように見える。しかし、われわれの予想は、主体は、まさにその十全なる実現の瞬間に自己解体を運命づけられているかもしれない、ということである。主体性の理念や、それに基づくシステムの政治は、実は、主体性が制限された範囲でしか現実化していなかったから、うまく機能しているように見えただけなのかもしれないのだ。……彼(彼女)がいったん表明してしまった意志は、実際にはどうであれ、容易には変わらない選択として受け取られてしまうからこそ、主体という形象はまもられてきたのである」。電子メディアの発達と直接民主主義という視点から、はからずも垣間見てしまった〈主体〉というものの実態。『電子メディア論―身体のメディア的変容―』は、新曜社から刊行されているようです。そして最後に、オマケをもう一つ。上野千鶴子氏の『文学を社会学する』(朝日新聞社)の「あとがき」から、「ところで『文学』は言語表現の聖域、なんかではない」。それは、その通りでしょう。

 

12月26日(火)

 おかげさまで8月に誕生したこの「日野庵」も、20世紀中にめでたく500カウントを越えることができました。「20世紀」とか「500カウント」とか、世の中の波(?)に無反省に乗っかっているような感が多分にあることは否めませんが、ここは深くは考えずにおきましょう。とにかく、これからもマイペースで続けていきます。

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