つれづれ日記 2001.11-12
■12月28日(金)
何歳(いくつ)になっても新たな世界を求めて生きていたいものだと思います。過去の実存主義を唱えた人々のように、未来がすべて自由に選びとれるものなどとは考えていませんが、今に流れ込む過去の時間を大切にしながら、いろんなところに目を向けていたいものです。さあ、来年は何をしようか? おっと、その前に、まずはこの年末をどう過ごすか? 『ハリー・ポッター』も観に行きたいし、山のようにたまった本も読みたいし……。と言いながら、どうやら今年はこれが最後の日記となりそうです。皆さんもどうぞよいお年を!
■12月27日(木)
映画『ハリー・ポッター』が人気のようです。私がはじめて「ハリー・ポッター」という名を耳にしたのは、ちょうど1年ほど前。推薦入試を受ける生徒のために、模擬面接をしていた時のこと。「最近読んだ本は?」との質問に、その生徒(ちなみに女の子)が「『ハリー・ポッター』シリーズです」と答え、思わず「それ、何?」と言ってしまったのでした。逆に生徒から、「今、ベスト・セラーになってますよ」と諭されたのを覚えています。それからずっと気になってはいたのですが、映画が公開されるや、大人も子供も巻き込む社会現象になってしまいました。今晩も、NHKのBSで、荒俣宏と野村佑香が「ハリー・ポッター」シリーズの故郷イギリスを訪ねる番組の再放送をやっていて、思わず見入ってしまいました。それによると、作者のJ.K.ローリングさんは、幼い子どもを抱え生活保護を受けながら『ハリー・ポッターと賢者の石』を執筆。子どもが寝た後に近所のカフェへ出かけてはこつこつと書き上げ、それが世界的なベスト・セラーになったとか。世間の人々からは、「彼女のサクセス・ストーリー自体が、ハリー・ポッターの魔法だ」などと言われているようですが、「魔法」を呼び覚ますためのおまじないが「実行」であることを忘れないでおきましょう。
■12月26日(水)
25日の夜は結局、BSの映画劇場で『クリスマス・キャロル』を観て過ごすことに。未だディケンズの原作を読んだことはないものの、映画は大学の時に研究室の仲間と観て以来、数回目。クリスマス・イヴの夜、ケチで人間嫌いのスクルージ老人のもとに3人の霊が訪れ、そのおかげでガリガリ亡者だった彼の心も次第に解きほぐされて行く。これといった意外性もないお決まりのストーリーですが、クリスマスの夜には、何となくこのような定番の映画がぴったりと合うような気もします。いたるところで「改革」が叫ばれたこの1年。時には、変わらず繰り返される時間の中に身を浸すのもよいものです。
■12月24日(月)
ちょっとした用事があり、昨日、車で金沢大学の角間キャンパスへ向かいました。天気もよいし、休日の午前中とあって高速を下りてからも道路はとてもスムーズ。日野庵からちょうど1時間半で車は大学の駐車場に到着しました。で、ふと駐車場のほかの車を見たとき、「エッ!?……」。数台の車は、ワイパーが立った状態で駐車されているのです。この習慣、雪の降らない地域の人にはわからないでしょうが、雪が降ったときにはワイパーを立てておかないと、ワイパーがフロントガラスに凍りついてしまったり、雪の重みでゆがんでしまったりする恐れがあるのです。つまり、駐車されている車がワイパーを立てているということは……。私が到着したのはお昼前なので、さすがに消えていましたが、おそらく山の中のこの辺りは朝方雪が降ったのでしょう。そう言えば、何かしら吹いてくる風も、街の中より身にしみて寒いような。今更どうしようもないのですが、あらためて大学がお城の中にあった時代を懐かしく想い出したのでした。
■12月22日(土)
本日、日野庵でも遅ればせながら年賀状作りを行いました。当庵の年賀状は、毎年プリントゴッコで作ります。最近はパソコンを使い、表書きまでプリンターで印刷してしまう人が多いようですが、それには何となく抵抗があって、いまだに「手作りの味」を大切に守っています。この日野庵特製オリジナル年賀状を欲しい方は、メールでご連絡下さい。先着10名様に限り、2002年の元日にお届けいたします(笑)。
■12月21日(金)
「瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。……牡丹屋の亭主はその日の夕飯にと言って瑞見から註文のあった肉を横浜の町で買い求めて来て、それを提げながら一緒に神奈川行の舟に移った。……牛鍋は庭で煮た。女中が七輪を持ち出して、飛石の上でそれを煮た。その鍋を座敷へ持ち込むことは、牡丹屋のお婆さんがどうしても承知しなかった。/『臭い、臭い』/奥の方では大騒ぎする声すら聞える。/『ここにも西洋嫌いがあると見えますね』/と瑞見が笑うと、亭主はしきりに手を揉んで、/『いえ、そういう訳でもございませんが、吾家のお袋なぞはもう驚いております。牛の臭気が籠るのは困るなんて、しきりにそんなことを申しまして。この神奈川には、あなた、肉屋の前を避けて通るような、そんな年寄りもございます』……『先生、肉が煮えました』/と十一屋は瑞見の話を遮った。/女中が白紙を一枚ずつ客へ配りに来た。肉を突ッついた箸はその紙の上に置いて貰いたいとの意味だ。煮えた牛鍋は庭から縁側の上へ移された。奥の部屋に、牡丹屋の家の人達がいる方では、障子を開けひろげるやら、籠った空気を追い出すやらの物音が聞える。十一屋はそれを聞きつけて、/『女中さん、そう言って下さい。今にこちらのお婆さんでも、おかみさんでも、このにおいを嗅ぐと飛んで来るように成りますよッて』/十一屋の言草だ。/『どれ、わたしも一つ薬喰いとやるか』/と寛斎は言って、うまそうに煮えた肉のにおいを嗅いだ」……これは島崎藤村『夜明け前』の一節です。舞台は、幕末の神奈川。牛肉を初めて食す際の、人々の滑稽な様子が描かれている場面ですが、興味深いのはやはり、「牛肉(の臭い)」が西洋の文化や生活習慣の象徴として記号化されている点。狂牛病の話題も一段落着いた(ように思われる)今日この頃、同じく終盤を迎えた(と報道されている)ニューヨーク貿易センタービル破壊テロを発端とするアメリカのアフガニスタン攻撃の模様をテレビで眺めながら、期せずして同じ21世紀の最初に起こったこの二つの出来事に、大きく共通する「何か」を感じてしまうのは私だけでしょうか?
■12月20日(木)
先日、同居人のマキが、『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)という本を買ってきました。このお話、しばらく前に「天声人語」で取り上げられたのは知っていましたが、まさか一冊の本にまでなっていたとは……。ネット世界を飛びまわった話らしく、その原型やどこの誰からスタートしたのかなどははっきりしないようで、この本には、人々の間を流通するうちに少しずつ姿を変えた「100人の村」話のいくつかのパターンが収録されています。近代になって、印刷技術の発達にともない「作者」という概念が強化されると、テクストが不特定多数の人々の間で変化しつつ流通するという状況はほとんどなくなってしまいました。それが、ネットの世界で甦っていたんですね。内容もさることながら、この話がどこでどんなふうに手を加えられ、広まっていったのか、現代の説話(!?)という点でもおもしろく思いました。
■12月18日(火)
最近の教育現場をとりまく状況には、まったく辟易してしまいます。学校教育に資本主義経済と同じ「競争の原理」を取り入れることがどれほど危険なことか、それを実行しようとしている人々はわかっているのでしょうか。小泉首相は「米百俵」などと言いながら、それとはまったく逆のことを平気で行い、世論はそれに対して何らの疑問も持たない。構造改革の「痛み」を、当事者とともに感じていなければならないはずの人が、なぜ流行語大賞の授賞式に笑顔で出席できるのか。……どうも変な方向に進んでしまっているように思えてなりません。今日の「福井新聞」には、福井県の教育長と地元の中学生との「語る会」で、中学生から教育長に「学力低下といわれるのに、なぜ学校5日制にするのか」という質問がなされたことが記事として載っていました。まさに的を射た質問です。学校教育における「ゆとり」が人々の間で叫ばれた(今考えると、これも一つのブームでしかなかったのでしょうか)のは、まだ世の中が本格的な不況と構造改革の波に襲われる以前のこと。今、学校5日制が実施されれば(実際来年度から実施されるのですが)、それは「ゆとり」に向かうどころか、なりふり構わない熾烈な「競争」を生み出すこととなるでしょう。このまま行けば、その行き着くところは、「勝つ」か「負ける」かの社会です。学校教育でも、企業努力(長期的で人間的な教育実践などとはかけ離れた、目に見えた成果をあげるもの)を行った学校だけが生き残り、ぼやぼやしている学校は脱落していく。こんな状況が、ここ数年で当たり前になってしまうような気がします。教育は、勝者を育てるためにあるのでもなければ、競争の中で淘汰されていくべきものでもない。こんな私の考えに、共感してくれる人はいないのでしょうか。
■12月15日(土)
とうとう日野庵にも雪が降り積もりました。昨夜は一晩中「雪おこし」と呼ばれる雷が鳴り響き、今朝目が覚めると窓の外は真っ白に。「早めに家を出ないと、仕事に遅れる」と思い(当然雪が降ると車もふだんのようなスピードでは走れません)、覚悟して職場へ向かったのですが、何と……。自宅を離れるにつれて、雪は次第に減っていき、隣の市にある職場(自宅からは12〜13qの距離です)に到着してみると、雪なんてどこにもないではありませんか。どうも今回の初雪は、日野庵のあたりを中心に、局地的に降ったようなのです。天候というのは微妙なものなんですね。
■12月14日(金)
先月の末、鯖江市内の看護学校の戴帽式に出席しました。実は勤務先の高校にも衛生看護科があって、同じような時期に毎年戴帽式を行っているのですが、なぜか我が校のは一度も参観したことがなく、これが初めての戴帽式経験となりました。真っ暗な中、ナイチンゲールの灯火に導かれてナースキャップを戴き、誓詞を唱えるというこの厳かな儀式、いったいいつ頃から続いているのでしょう? 多くの儀礼が簡略化されたり消滅したりして行く中、なぜこの儀式=イニシエーションはかたくなにまもり続けられているのか。ただただ「神聖な」という言葉で美化されてしまう裏側に、それだけでは片づけられない「何か」があるように思えてしまうのは私だけでしょうか。
■11月18日(日)
「大根(だいこ)引き大根(だいこ)で道を教へけり」とは有名な小林一茶の句ですが、本日日野庵でも初冬の風物詩、大根引きを行いました(日野庵には小さな畑もあるのです)。土からニョッキッと白い首を出しているのをヨイショッと引っぱると、まるまると太った大根が姿を現します。ここで、ふと道を尋ねられたら、誰でも思わず引き抜いたばかりの土の付いた大根を手にしたまま、指さしてしまうでしょう。やはり、この句も実際に大根引きをやってみないと、おもしろみが実感できないですね。そう言えば、「大根を引く」という表現自体、実際に大根の収穫を経験した人でないとピンとこないと思います。言葉は本来理屈ではなく、生活に根ざしたところから生まれ、かつ生きていくものなのでしょう。例えばこの場合、スーパーできれいに並べられた大根しか見たことがない人にとって、「大根引き」という言葉は理屈では理解できても、言葉自体が実感をともなうことはないはずです。言葉のリアリティーって、大切なことですね。
■11月17日(土)
この季節、天気がよいと、雪化粧をした白山を彼方に眺めることができます。初冬の澄みきった青空のもと、大野・勝山方面の山並みの遥か向こうに、ひときわ気高い様子で顔をのぞかせます。私はちょうど朝の通勤の際、車の窓から目にすることが多いのですが、そのたびに何かこちらも凛とした気分になります。松尾芭蕉の『奥の細道』には、「漸(やうやう)、白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)あらはる」と記されています。福井から敦賀に向かった芭蕉は、陰暦8月15日の月を敦賀で見ようと、終盤を迎えた旅を急ぎます。「白根が嶽」とは白山のことで、「比那が嵩」とは日野山のこと。道行き風の文章で比較的あっさりと片づけたようにも思えますが、白山が遠くに去って、入れ替わりに日野山が近づくという表現は、実はすぐれた描写なのかもしれません。もっとも、芭蕉が眺めた白根が嶽は、まだ雪化粧には早かったかもしれませんが。
■11月6日(火)
今晩のハーモニーホール(福井県立音楽堂のこと)の演奏会、とてもよかったです。ジョルジュ・プレートル指揮の国立パリ管弦楽団。曲目は、ブラームスの交響曲第4番、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、同じくラヴェルのラ・ヴァルス。最近、忙しさのあまり脳細胞が飽和状態(?)になっていたのですが、今日のコンサートのおかげで、かなりリラックスできました。すぐれた演奏というのは、適度の緊張感の中に、聴衆の意識を和らげるおおらかさがあるように思います。ひさしぶりに音楽のよさを感じました。ただ、一つ気になったことが……。指揮者のジョルジュ・プレートルさんは、なんでステージに入ってくる時に、いつも“欽ちゃん走り”でかけ込んで来るのだろう? これも聴衆の気持ちを和らげるテクニックなのでしょうか。謎です。
■11月4日(日)
道路に色とりどりの落ち葉が舞う季節になりました。空の様子も落ち着きがなく、どことなく時雨模様を感じさせます。秋と冬が交錯する時季といっていいのでしょう。そう言えば、今日、ふと何年か前に訪れた「養老天命反転地」のことを思い出しました。ちょうど訪れたのが今と同じ落ち葉の、時雨模様の季節だったからでしょうか。NHKの番組ではじめて荒川修作の存在を知り、その時の私は非常な感銘を受け、どうしても彼の作品を体験してみたくて岐阜の養老まで出かけたのでした。考えてみればもう6年も前のことになります。立ち寄った養老の滝で「散り紅葉」を題材に拙い句を詠んだこと、茶店で串に刺されて焼かれていたおだんごを買って、それをほおばりながら歩いたこと、お土産に養老サイダーを買ったことなどが記憶の奥から断片的に浮かび上がってきます。人の意識とは不思議なものです。そんなどうでもいいことが、この季節独特の気配とともに、なぜかしら鮮明に感じられてしまうのです。……11月。足を踏み入れたどこかに、思いがけずぽっかりと時空を超える扉が開いているのかもしれません。