つれづれ日記 2002.8-11


11月5日(火)

 教育研究所の国語科研修講座に参加してきました。昨年のこの講座では研究発表を頼まれていて大変でしたが、今年はそれもなく気が楽です(笑)(発表者の方ご苦労様でした)。今回の講座の論点は、主に「表現活動」と「評価」の二点に絞られたようです。新学習指導要領では国語における表現活動の重視が謳われていますが、では、どのような形で表現活動を授業の中に取り入れ、さらに、どのような方法でそれを評価していくかという問題です。新学習指導要領の是非については、ここでは言及を避けるとして、この講座での意見交換の中でいくつか興味深いことがありました。まずは評価について。小・中学校では既に相対評価から絶対評価への移行の中で、評価の観点としての「評価規準」とその達成段階を明示する「基準表」の作成が進んでいるそうですが、今後は高校においても絶対評価の根拠としてこの二つの作成が求められてくるとか。教師の主観による一方的な評価ではない、生徒自身が納得して学習できる客観的な評価がこれからの社会のニーズだそうです。価値観が多様化し続ける今、教育の世界にもアカウンタビリティー(説明責任)とレスポンスィビリティー(結果責任)が要求されるというわけです。が、果たして、国語教育全般において、純粋に客観的で揺れのない絶対的な評価基準(規準)を設定することが可能なのかどうか。また、可能であったとしても、それを常に意識して学習を進めることが、本当に有意義な学習に繋がるのか。学習とは、本来、主体(主観)と主体(主観)のぶつかり合いによって深められるものだと考えている日野庵主人にとって、大いに気になる議論であります。それから、二つ目は表現活動について。参加者の中から、「表現することをしない生徒をどうするのか」という問題が出されました。表現しなければ、その生徒の表現力はゼロなのか。たとえば、「『幸せなら手をたたこう』という言葉を態度で表現してみよう」という課題が与えられた場合、より積極的に、より効果的に演じた生徒がおのずと高い評価を得ることになるでしょう。しかし、心の中で「自分だったら幸せな時に手なんか絶対にたたかない」と考えて表現を悩み続け、結局、おぼつかない表現しかできなかった生徒がいたとしたら……。表現というものを一定の基準(規準)と特定の課題で評価することが、結果として評価目標に迎合する表面的な学習を助長し、逆に表現の基盤となるべき個性を疎外してしまうという危険性もはらんでいること。「客観」とは(それがいかに周到に設定されたものであっても)、実は「主観の集合」に貼られた単なるレッテルに過ぎないことを、私達は常に謙虚に意識しなくてはいけないように思います。


11月2日(土)

 このところ寒い毎日が続いています。雷とともに冷たい雨が降りしきったかと思うと、急に雲の間から陽が射してきたり、……冬の訪れを予感させる北陸特有の天気です。例年なら秋から冬への移行はもう少しゆっくりとしているのですが、今年は秋の深まりを愛でる暇もなく、何かしら一気に冬が近づいてきたような感じです。そんな中、日野庵主人、先週から風邪をひいてしまいました。高熱が出たりということはないのですが、せきや鼻水がなかなか止まらず、仕事をしていても元気が出ません。完全に治してしまおうと、日野庵恒例の秋の大掃除(日野庵では年末ではなく秋に大掃除をするのが習慣)も後日に見送り、今日は家でおとなしくしていたのですが、何となく手持ち無沙汰で、過去のつれづれ日記を繙いてみました。昨年の今頃は何をしていたのだろうと、見てみると、11月4日の日記は「道路に色とりどりの落ち葉が舞う季節になりました。空の様子も落ち着きがなく、どことなく時雨模様を感じさせます。秋と冬が交錯する時季といっていいのでしょう」との出だしで、昔訪れた岐阜の養老天命反転地のことを想い出しています。また、6日にはジョルジュ・プレートル指揮の国立パリ管弦楽団の演奏会を聴きに出かけた時の感想が。ブラームスの4番を聴いて、プレートルさんの“欽ちゃん走り”を見て満足している様子が蘇ってきます。一昨年は?と、さらに遡ってみると、11月11日の日記には、福井市のフェニックス・プラザへ白川静氏の講演を聴きに行った時のことが。最近の出来事のように思っていたのに、もうあれから2年が経つのだ、と不思議な気持ちになりました。「日記」って、なぜ存在するのでしょうか?なぜ、多くの人は「日記」を記すのでしょうか?おそらく人や時代によっても異なる「日記」というものの意味や価値について、改めて考えてみたいという気がしてきます。


10月20日(日)

 秋の休日、日野庵に書棚とロッキング・チェアーが入りました。書棚は天井までの高さのスライド式のものを2つ。これで、片付けるスペースがなくいたる所に散乱していた本もやっと整理できます(日野庵主人の努力があればの話ですが)。それから、ロッキング・チェアーの方は、同居人のマキが大学の時に使っていたもの。実家の押し入れで眠っていたのを、日野庵の縁側へと運んできました。縁側は南向きで、暖かな日にはちょうどよいくつろぎの場所となります。この秋は、ロッキング・チェアーに揺られながら、ゆっくり読書といきたいものです。


10月14日(月)

 昨日の「御文」については、研究者(と呼ばれる人々)の中でも帝の手紙とする解釈とかぐや姫の手紙とする解釈が混在していて、どちらが正しいとは言えないようです(例えば、手元にあった「國文學」平成5年4月号の『竹取物語』特集の中でも、鈴木日出男氏は「帝がかぐや姫の残し置いた手紙と不死の薬を駿河の山の頂で燃やさせた」としているのに対し、益田勝実氏は「富士山頂で、帝の手紙と不死の薬とを並べて燃やした」としていて、両者の理解はくい違っています)。ところが、私日野庵主人、ここへ来てなぜかふと、2年生の現代文の授業で読んでいた坂口安吾の「文学のふるさと」という文章を頭に思い浮かべました。その中で安吾は、童話「赤頭巾」を取り上げ、この話はもともと赤頭巾がオオカミに食われてしまうところで終わっていたのに、後の人々が、赤頭巾とお婆さんが救い出され、悪いオオカミが死ぬという結末を付け足したのだということを述べ、同様な例として、『伊勢物語』の第6段(有名な「鬼一口」の段)もあげています。この、鬼が女を食ってしまう話、『伊勢物語』の中では、在原業平と二条の后の恋物語の系列に取り込まれて、実は業平が奪った妹を兄たちが取り戻しに来たのだったという語り手による種明かしまでくっついてしまっていますが、もとの伝承ではそんな意味づけなどは存在しません。女を突如現れた鬼が一口に食ってしまう、たったそれだけです。両者に共通するのは、童話や伝承が受容される中で、もともとは存在しなかった物語としての〈秩序〉が付加されて行ったという点。『竹取物語』の〈読み〉においても、何か同様の現象が生起しているのではないかと感じたのです。文学とプロット。〈読み〉が逆にプロットを形成することがあるとしたら、いったい〈読み〉自体を方向づけているのは何なのか。出発点となった『竹取物語』についての疑問も、このような〈読み〉のメカニズムという視点からとらえるとおもしろいかもしれません。


10月13日(日)

 ひさしぶりに文学の話題です(笑)。1年生の古文の授業で『竹取物語』の最後の場面を読んでいて、今さらながら考えたことが一つ。かぐや姫が月の世界に去った後、帝が勅使に、「駿河の国にあなる山のいただき」に行き、そこで「御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やす」(本文の引用は『新日本古典文学大系』)ように命じます。が、いったいここで「不死の薬」とともに燃やされた「御文」とは、誰の書いた手紙だったのでしょうか。単純に読むと、この場面の直前で本文中に「御文」が出てくるのは、かぐや姫が月に帰る前に帝に「薬の壺に、御文そへてまいらす」という部分だけですので、帝が燃やさせた「御文」も、かぐや姫からの手紙ということになります。ただ、何となく不安になっていくつか書物をあたってみると、まず、『新古典文学大系』(岩波書店)には当該部分の「御文」の脚注として、「「死なぬくすりも」の歌を含む帝の手紙。薬を焼くわけを天界に訴えた行為」とあります。つまり、「今はとて天の羽衣きるおりぞ君をあはれと思ひいでける」というかぐや姫の和歌に対する返歌として、帝が詠んだ「逢ことも涙にうかぶ我身には死なぬくすりも何にかはせむ」という和歌を含む手紙を天に最も近い山の頂で燃やすことで、今は人をして渡すことも不可能となった月世界のかぐや姫に、帝は自分の気持ちを伝えようとしたという解釈なのです。おやっ、でも、帝の手紙がいきなり出てくるのは不自然なのでは、という疑問がわき起こりますが、『大系』ではその点について、(かぐや姫が)「かの奉る不死の薬に、又、壺具して、御使にたまはす」という部分について、「後文に比してここで欠けているのは「御文」なので、「又」は「文」の誤りか」として、テクスト自体の不備を示唆することで、解釈を補強しています。『古典文学全集』(小学館)もこれと同様の解釈を行っていました。確かにこの解釈だと、帝が「不死の薬」を燃やす行為も、「姫のいなくなった今となっては、不死の薬も意味はないのだ」という自身の嘆きを何とかして天上の姫に伝えたいという帝の切実な気持ちをともなって、現実性を帯びることとなり、非常にスマートな物語の形を持つことになります。けれども……。天の邪鬼の日野庵主人は、ここまで来て、何となく胸にひっかかるものを感じました。「これじゃ、あまりにもスマート過ぎじゃないか?」。そもそも『竹取物語』って、こんなスマートな、物語としての〈秩序〉を保った文学なのでしょうか。(明日に続く)


10月7日(月)

 武生市では今年で51回目となる「たけふ菊人形」が開幕。ずっと「菊人形」での公演を続けてきたOSKのレビューが今年で最後だと聞き、日野庵主人も、昨日の日曜日、ほぼ20年ぶりに(!)会場を訪れました。開幕間もないため、菊はまだつぼみかな、と思いながら入場したのですが、そんな懸念はどこへやら。下の写真のとおり、色鮮やかな満開の菊が出迎えてくれました。これから1ヶ月の開催期間中、常に満開の菊を会場内に咲きほこらせるためには、多くの人々の苦労があるのだろうなと、感じ入ってしまいました。しかし、この「たけふ菊人形」も、近年、大きな曲がり角に来ていることは確かです。戦後の復興の中で第1回が開催され、社会の発展とともに回を重ねてきた「菊人形」。兼業農家の多かった福井県にあって、かつては、秋の収穫を終えた人々にとっての唯一の行楽であり、憩いの場であったのでしょう。けれど、多くの人々が農作業から離れるとともに、より刺激的なレジャーが有り余るほどに存在する現在、「菊人形」の持つ意味も大きく変化しているのです。今朝の「福井新聞」によると、開幕して初めての日曜日である昨日(天気は晴れ後曇り)の入場者数は、3,300人。『利家とまつ』効果は、「菊人形」まで及ぶのかどうか……といったところです。ただ、20年ぶりに会場を散策して思ったのは、規模の大きさだけでは判断できない多彩さと、ほのぼのとした雰囲気がいたる所から伝わってきたこと。会場内の落ち葉を丁寧に掃いてくださっているボランティアのお年寄りたち。出店で明るく声をあげ、忙しく働きまわっている若い人々。来場者も予想以上に幅広い年齢層にわたっていますし、日本人だけでなく福井に住む外国の方も多く訪れているようです。価値観やライフスタイルが多様化する今だからこそ注目される新たな「良さ」が、この「菊人形」にはあるのかな、などと考えながら、のんびりと深まりゆく秋を満喫したのでした。


9月16日(月)

 気候もぐっと涼しくなり、過ごしやすい季節になりました。食欲の秋、と言いますが、最近日野庵近辺ではサツマイモを食い荒らすイノシシのことが話題になっています。正直なところ、このあたりの農家の人々にとっては、遥か彼方のテロ事件のその後よりも、このサツマイモ事件の方がよほど重大な出来事なのです。かく言う、うちの畑でも、収穫目前のサツマイモが一夜にしてイノシシにやられました。日野庵主人も、秋の味覚としてサツマイモを楽しみにしていたのに(日野庵主人は焼きいもが大好物)。ほかの家の畑も次々とやられたそうです。しかし、これまで日野庵近辺でイノシシが出てきて畑の作物を食い荒らすというようなことは聞いた覚えがありません。なぜ、今年はこのようなことになったのでしょうか?近所でも、一時は、イノシシではなくてほかの動物ではないかなどと噂されたようですが、実際に畑でイノシシを目撃した人もあり、間違いはないようです。でも、これまでになかったことがなぜ?聞くところによると、神戸の住宅地にも、夜になるとイノシシが現れることがあるとか。映画「もののけ姫」では、イノシシは山の神として描かれていましたが、これも案外、人間の行いに対する自然からの「忠告」なのかもしれません。人間の営みと自然の摂理とが、太古からかろうじて均衡を保ち得たのも、知らず知らずのうちに自然への恐れと慎みが人々の間に育まれていたからなのでしょう。


9月14日(土)

 2001年9月22日の日記に私はこのように記しています。「アメリカという国は、なぜこんなにも『強くなくてはいけない』という意識から抜け出すことができないのでしょうか。そう言えば、アメリカ映画では昔から、『巨大な敵と戦って勝利する』という物語が繰り返し繰り返し描かれてきました。その敵とは、ある時にはソ連だったのであり、ソ連が崩壊した後には、地球を侵略する宇宙人や地球に降りかかる宇宙規模の災害にまで及びました。そして常に、そこで描き出されてきたのは、人類の自由と平和と民主主義を滅ぼそうとする悪者と、それを守ろうとする正義の味方アメリカという二項対立の構図です。今回も、ブッシュ大統領はこの構図をアメリカの人々の意識に焼き付け、そこに世界の国々を巻き込んで、大きな戦争を開始しようとしています。けれど、アメリカの中にも、今回のテロ事件に対して、自らのうしろめたさというものを感じている人はいるのではないでしょうか。テロという行為は毛頭許されるものではありませんが、その許すべからざる行為にも、背景というものはあります。アメリカという国家自体が実は、多大な犠牲者を出した今回の事件に対して、決して潔白ではないこと。それを自覚するところからしか、本当に前向きな一歩は踏み出せないはずなのですが……。現実は単純な二項対立ではないのに、哀しいかな、『大きな力』はすべてを隠蔽し、映画のシナリオどおり、着々と物語を進めてしまっています」……あれから1年。アメリカの描くシナリオは着々と進行し、あたかも世界の多くはその大きな渦に同調しているかのようにも見えます。けれども、このシナリオは果たしてどこまで続くのでしょうか?いや、続けることができるのでしょうか?その破綻はすでにアメリカ合衆国そのものに見えているようにも思います。情報操作、言論の弾圧、強制収容……。現在のアメリカには(もっとも、過去がどうであったかは私にはわかりませんが)、自由も平等も民主主義も存在しません。あるのは盲目的で排他的な愛国心と、国家主義的で一元的な思想のみです。おらくこの不条理にアメリカの人々自身がいつまでも気づかないはずはないでしょう。物語は、作者の思わない方向へ進むことになるかもしれません。


9月10日(火)

 雨で延期になっていた体育祭も一昨日の日曜日に無事終了し、藤島高校の学校祭はすべてが幕を閉じました。私日野庵主人、藤島の学校祭を見るのは初めてでしたが、その出来栄えはもとより、準備から後始末にいたるまでのすべてを生徒自身の手で責任を持って行うという学校祭の在り方に、内心驚いてしまいました。「すべてを生徒自身の手で責任を持って行う」というのは、高校にもなれば当たり前のことなのですが、十数年前ならともかく、現在の学校現場では、生徒主体とは言いながらも、実際には教員があれこれと動き回ってしまうのがほとんどのようです。「生徒だけでさせておいて、もし事故が起こったら大変だ」とか、「受験に役立たないことばかりに時間を費やさせるわけにはいかない」などの声が、いつしか高校生から自律的な意識や行動を取り去ってしまったのかもしれません。幸いなことに藤島高校には、「失敗させない」のではなく、「失敗を通して学習させよう」という空気が色濃く残っているようですし、「学力だけでは世界のリーダーにはなれない」という意識も強く根差しているようです。「不易流行」と言いますが、見栄えのよさや形式的なもののみを守るべき伝統と勘違いしてしまうことの多い中で、本当の意味での伝統をしっかりと見抜き、大切に育んでいく姿勢を失わないようにしなければなりません。


8月30日(金)

 福井新聞に「日中国交30周年」と題した共同通信の特集記事が連載されています。今日の紙面には、その第2部「きしみ」の第4回として「日本の世論 進む親台湾化」が掲載されていました。1972年9月の日中国交正常化以来、中華人民共和国と日本国との「公式な」関係が進展する背後で、台湾の存在はおのずと「非公式な」ものとされながらも、経済や文化をはじめとするさまざまな面で日本と台湾が交流を続けてきたのは確かな事実です。そして、この記事が指摘するように、「一つの中国」を繰り返し強調する「中国の『こわもて外交』」が「嫌中感」をあおる一方で、経済的な発展とともに「一党独裁」からの脱皮を実現した台湾のしなやかな姿勢の方に親しみを感じる日本人が多くなっていることも事実だと思います。昨年4月、「心臓手術後の検査・治療を受けるため」に訪日を希望していた李登輝前総統を、「一民間人への人道的な配慮」として日本政府が受け入れたのも、このような世論があってのことでしょう。現在の台湾の総統は本省人である陳水扁氏。「あるべき中華民国の仮の姿としての台湾」というような誇大妄想的な思想は姿を消し、彼は「一辺一国」(別々の国)という現実的な表現をとっています。一見すると、「大陸」(中国)と真っ向から交戦しようという過激な発言のようにとらえられかねませんが、私はむしろこの意識を理解することこそが、中華人民共和国と台湾の関係を前向きに解決するための唯一の手段ではないかと思います。記事の中にあった菅直人氏の発言「台湾の国連加盟は将来的な統一の目標と矛盾しない」(上海で行われた民主党と上海国際問題研究所とのシンポジウム)は、的を射た意見だと言えないでしょうか。


8月29日(木)

 (昨日の続き)このエピソードを会場にいた数百人の聴衆がどのような意味で理解したのか、あるいは、大江氏自身がどのような意図でこのことを語ったのかはわかりません。ただ、私としては、この話の中に登場する先生の思いはとても重要であると感じました。都会からやってきた先生は、地元の少年が土地の言葉の体系にはそぐわない「美しい」という言葉を使ったことに強い「違和感」を覚えたのです。そして、この「違和感」は、おそらく現代の私たちが中野重治や大江健三郎という作家の作品を読む際にも、必要とされる感覚ではないかと思うのです。「美しい」という言葉は、実は愛媛の山奥の大江少年に限らず、日本語の文脈の中でも「違和感」のある言葉であると、私自身は思っています。ちなみに、川端康成がノーベル文学賞を受賞した時の記念講演の演題は「美しい日本の私」でした。「美しい」という言葉を問い直してみることが、案外、戦中から戦後の日本人の精神を繙く手がかりになるのかもしれません。……大江氏は現在、年間1セットのペースで個人全集を読破していらっしゃるとのこと。いずれにしろ、私の勉強不足ではかなわない話だと、今さらながら反省したのでした。


8月28日(水)

 1979年8月24日に亡くなった中野重治は、福井県丸岡町の出身です。今年は重治の生誕100年にあたるそうで、先週の24日、丸岡町一本田の生家跡で恒例の「くちなし忌」が行われた後、場所を福井県立大学に移してノーベル文学賞受賞作家・大江健三郎氏の講演会が開かれました。演題は「『村の家』が日本の現況を照らし出す」。重治の「梨の花」が雑誌「新潮」に連載された時、大江氏は大学に在学しながらすでに小説を書き始めていて、興味を抱いて読んだ記憶があるとのこと。卒業時には全集を購入して通読した経験もあるそうです。その重治の作品のいくつかを取り上げた今回の講演は、氏が「若い人に聴いてもらうつもりで原稿を書いてきた」とおっしゃる通り、とてもわかりやすく丁寧な語り口で進められました。1時間30分にわたる講演の内容をここにすべて書くことはできませんが、私が特に印象深く思ったのは「美しい」という言葉をめぐる小学校時代のエピソードです。場所は愛媛の山奥の小学校、授業で朴の葉のスケッチをしていた大江少年が都会から来た先生に「僕は葉脈がとても美しいと思います」と言ったところ、その先生は「『美しい』というような、疎開している子たち(この頃、大江少年の村にも都会から多くの人が疎開していた;日野庵主人談)の言葉遣いを真似てはいけません。地元では何というのですか?」と叱ります。大江少年が仕方なく「『げじむ』(だったと思う;日野庵主人談)です」と答えると、先生は「そうでしょう。その地元の言葉を使えばいいのです」とおっしゃたそうです。ところが、この一件を聞いた大江少年のお母さんは怒って、「なぜ正しい日本語を話すことが悪いのか」と、小学校の校長室に談判に駆け込んだとのこと。今でもこの出来事が大江氏の記憶の中に鮮明に残っているというのです。大江氏は、それから時を経て中野重治の小説(「梨の花」や「歌のわかれ」など)の中にこの「美しい」という言葉が頻繁に、しかも特徴的に使われていることに気づきます。そして、自分と同じような「田舎」で育った重治が「美しい」という言葉を自伝的作品に取り込んでいることに、自分が救われるような気がしたというのです。(明日に続く)


8月15日(木)

 今日は57回目の終戦記念日。資本主義陣営対共産主義陣営という冷戦構造の形成と、その崩壊。アメリカの一極的なグローバル化への反発とテロの勃発。……大戦後、世界はいくつかの局面を経て、今、新たなパラダイムを模索しなければならない時にあるのかもしれません。それが出口のない闇への突入となるのか、前向きな一歩となるのか。日本という国と、日本人と呼ばれる私たちも、その世界の波の中で揺れ続けています。外圧の中、日本という「国家」がにわかに形成されていった時代。その「国家」が絶対化され、「国民」そのものをも押しつぶしていった時代。「国家」への忠義という道徳に代わって「民主主義」「個人の尊重」「自由・平等」が価値基準となった時代。経済成長に支えられ、「よい大学」「よい就職」を求めて新たな社会のピラミッド化が進んだ時代。バブル後の経済低迷に伴う価値観の崩壊と、揺り戻しとも呼べるような短絡的な「国家」意識の再来。……はからずも今日、愛媛県の教育委員会が中高一貫教育の公立中学校において、来年度、「つくる会」の歴史教科書を採用することを決定したというニュースが報道されました。テレビ画面では、今回の採択に携わった教育委員会の関係者が、「日本の歴史の明るい面を子どもたちに教えたい」とコメントしていました。これはいったい、どういうことなのでしょうか。私たちは「国家」という枠組みを問うことの大切さを学問によって明らかにするとともに、過去の歴史の中で実感してきたはずです。また、物事は一つの方向からの一面的な理解では捉えることはできず、他人とのコミュニケーションには多面的なものの見方と、それを踏まえた前向きな判断が必要不可欠であることを十分に知っているはずです。少なくともこれからの教育は、その理念をより具体的な形で実践するものでなければならないはずなのです。日本と韓国、中国、台湾といったアジア諸地域との関係、アメリカとイスラム文化圏との関係、イスラエルとパレスチナの関係……。いずれも「国家」という概念を不問にしたままひもとくことは不可能ですし、一方的な解釈を押し通すことで解決が得られることはあり得ません。それどころか安易な判断と行動が、世界を暗黒に陥れることさえあり得るのです。


8月14日(水)

 昨晩放映されたNHKスペシャル「幻の大戦果〜台湾沖航空戦の真相〜」と、同じくNHKスペシャルで今晩放映された「海上自衛隊はこうして生まれた」は、あくまでこの番組の中で語られたことが事実のすべてではないにしろ、いずれも私にとってはかなり衝撃的な内容だったと言えます。前者は、1944年10月、米軍に追いつめられつつあった日本に大本営が発表した台湾沖航空戦の幻の大戦果(実はまぎれもない誤報)がどのようにして生み出されたかを、関係者の証言を集めながら検証したもの。戦争末期の日本において、情報の錯綜→隠蔽→捏造が生じたプロセスと、その背景。そして、それによって、レイテ決戦、特攻作戦という絶望的な戦いへと突き進まざるを得なくなって行った状況が明らかにされていました。また、後者は、海上自衛隊(警備隊)創設に旧海軍出身者たちの軍備復活の意図が大きく関わっており、現在までの海上自衛隊幹部も、その意識を脈々と受け継いでいるという事実を追究したもの。日本の防衛・軍備というものが、これまでとは違った角度で見えてくるように思えました。


8月12日(月)

 (昨日の続き)……そうなのです。このおっちゃん、実は横須賀に駐留しているアメリカ軍のドクターだったのです。はるばると故郷のフロリダを離れて横須賀で軍医として仕事をしているものの、日本国内を見聞したことはなく、今回2週間の休暇をもらえたのを機に、日本人の秘書に頼んで切符や旅館の手配をしてもらい、思い切って未知の国の一人旅に出てきていたのでした。なるほど、とうなずくと同時に、ここに来て、彼の存在が私にとってリアリティーのある確固としたものになったような気がしました。それはなぜか。……彼の「素性」が明らかになったから、というのは否定できないかもしれませんが、それよりも重要なのは、彼の「心の中」が私なりに理解でき、「思いやる」ことができたから、ということだと思います。彼が今、どんな状況の中、おそらくどんな気持ちで私とこのたどたどしい会話をしているのか。それが思いやられたからこそ、私の中で彼の存在が具体的な輪郭を持った一つのパーソナリティーとして現出してきたのです。……その後、私が北陸線に乗り換える米原までの間、あいかわらずのたどたどしいコミュニケーションながら、彼の持っていた「サヴァイバル・ジャパニーズ」をテキストに、まさに「生き残るための最低限の日本語」(笑)の練習が行われ、最後に固い握手をして別れたのでした。人の出会いとは不思議なものです。


8月11日(日)

 横浜で開催された第26回全国高校総合文化祭の新聞部門を視察した帰り道、新幹線の中で一人旅の外人さんと隣り合わせになりました。その外人さんは日本語がまったくわからないらしく、初めはお互いに黙っていたのですが、そこは長い道中のつれづれ、どちらから声を掛けたということもなく、少しずつ話をし始めました。ただ話といっても非常にたどたどしいもので、その外人さんは英語ばかりでまったく日本語がわからないし、私は私で大学卒業以来、英会話などとは縁のない毎日を送っているのですから、お互いに簡単な英語とジェスチャーで意志疎通を試みるしかありません。けれどそんな形ではあっても、コミュニケーションをとるうちに、何となく彼の状況はわかってきました。それをまとめてみると、@彼は、アメリカ合衆国のフロリダから日本にやってきた。Aフロリダには妻や息子が居て、息子は毎日「フトン」で寝ている。B彼はこの日横須賀を出発して京都に向かおうとしている。C日本国内を旅するのは初めて(日本の電車に乗ったのもこの日が初めて)にもかかわらず、果敢にも一人で「ジャパニーズ・リョカン」に泊まり、京都を散策しようとしている。……と、こんな感じです。ちなみに「フトン」は、フロリダのストアーで簡単に買うことができるそうです。もちろん、これだけのことが一瞬でわかったのではなく、この間には、(私)「フロリダ?……オー、NASA。スペースシャトル!」(彼)「?……イエス。ケープカナヴェラル、スペースセンター。」などというわけのわからない会話も混じりながら、とにかくも静岡の茶畑を通り過ぎるくらいには、二人ともかなりうち解けて話(もどき)ができるようになったのでした。けれど、私の方はというと内心、話を聞けば聞くほど(大変失礼ではありますが)「変なおっちゃんだなあ」と思わないではいられませんでした。だって、まったく日本語もわからないのに、何で一人でフロリダからはるばるやって来て、横須賀経由で京都まで行って、「ジャパニーズ・リョカン」に泊まるなんて言い出すの? 普通、こんな人いないでしょ。やっぱり、広大なアメリカ合衆国、こんな人もいるんだなあ、と、勝手に自分一人で不思議に思ったり、感心したりしていたのです。ところが、車窓に浜名湖が見え始めた頃、おもむろにそのおっちゃんが懐から一枚のカードを取り出して私に差し出しました。で、差し出されるままに私も何気なくそのカードに目を落とすと、そこにはその人の写真と署名がプリントされていて、どうも身分証明書のようです。そして、さらによく見ると、な、なんと、「U.S.NAVY」と書いてあるではありませんか。(明日に続く)


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