『伊豆の踊子』再考―葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題―
三川智央
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作品の起源としての作者の存在を絶対的なものと考え、最終的には、作品の意味を〈作者〉という特定の人格に還元する――言いかえれば、作者自身の意識や体験などと小説言説との関わりを究明することこそが作品研究の唯一絶対の目標であると確信して行なわれてきた従来の文学研究の在り方注1が、ナラトロジー(物語論)などの新たな文学理論の導入によって一九八〇年代以降徐々に組み替えられていったという出来事注2は、藤森清氏がその著書の中で言及しているように注3、「文学」という「自らの研究対象の社会的効力の喪失という事態」に対する近代文学研究の「反応」として前向きにとらえることができると思う。
しかし、このナラトロジーというものを具体的に個々の作品にあてはめて考えてみる場合、そこには一つの〈落とし穴〉が潜んでいるようにも思う。それは、現在の文学研究において、ほとんど自明のものであるかのように一般化してしまった「語り手」という概念についてである。周知の通り、この「語り手」という概念は、現実とは区別された物語世界内において物語行為を行なう虚構の言表主体のことであり、あくまでもナラトロジーにおいて仮構された存在であったはずだ。ところが、私たち(私だけかもしれないが)は、ややもすると「語り手」が実体であるかのような錯覚に陥ってしまう。そして、その実体化された「語り手」を物語世界における絶対的存在として扱い、作品の意味をすべてそこに還元しようとしてしまうのである注4。
このような錯覚の根本には、物語内容と物語言説の関係についての誤解が潜んでいるのかもしれない。そもそもこの両者はどのような関係にあるのか。遠藤健一氏はこの点について、「物語内容は物語言説の修辞的な操作によって作り出されるにもかかわらず、その因果関係は自明の所与として見做されることによって、物語という制度もまた物語についての理論も存在しうる」と述べている注5。物語内容を物語行為に先立って存在する〈事実〉としてとらえ、その〈事実〉が統轄者である「語り手」の〈語る行為〉によって言説化されるというイメージを、私たちが無意識のうちに抱くという点に、錯覚の原因はあるのだろうか。
私は以前、拙稿「『伊豆の踊子』論――〈語り〉の多重的構造について――」注6において、『伊豆の踊子』注7の「語り手」の位相とその〈語り〉の在り方を、「語り手の《私》は物語世界から巧みに遠ざかり、三人称客観小説の〈神のごとき語り手〉の位相に近い非人格的地位を作品構造の中で確保しつつある。そして、そこから発せられる〈語り〉は、人格的に統一された単一的な志向としては理解することのできない多重的な構造を有している」とまとめて、「語り手」の非人称性をほのめかしながらも、その非人称性について具体的に突きつめることは行なわなかった。いや、行なえなかったと言った方が適切かもしれない。しかし、今、先に述べたような問題意識を抱いた上であらためて『伊豆の踊子』という作品を眺めた時、実はこの作品こそ、物語内容の物語言説に対する優位性という仮構を揺るがせる何らかの力を、構造そのものに内包しているのではないか、という思いに駆られる。
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果たしてこの〈思い〉を具体的に実証することができるだろうか。
そもそも、私がこのような問題意識を抱くきっかけになったのは、『伊豆の踊子』第七章における次のような言説による。
はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきつと閉ぢたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。はしけが帰つて行つた。栄吉はさつき私がやつたばかりの鳥打帽をしきりに振つてゐた。ずつと遠ざかつてから踊子が白いものを振り始めた。注8 (傍線引用者)
この「私」と踊子の別れの場面で以前から議論されてきたことがある。それは、傍線の部分「さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた」の主語は誰かという問題である。何げなく読み流してしまいそうな部分だが、別れの状況を具体的にイメージしようと思うと、この部分の主語はぜひ確認しておかなくてはならない。ところが、いざこの部分を読み返してみると、この特定がいささか困難であることに気付く。「私」であるのか踊子であるのか判断しにくいのである。そして、実はこの主語の問題については、読者からの質問に答えて作者である川端が後年、随筆の中で詳細な解説を行なっている注9。
……幾度も質問の手紙を受けるのは、「伊豆の踊子」の次ぎのくだりである。(中略)「うなづいた」のは、「私」か踊子かといふ問ひである。教科書によって「伊豆の踊子」を学習の時に、教室で疑問が出て、議論となつて、中学生が、あるひは中学の国語教師が、作者の私に問ひただして来るわけだ。はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の「私」と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか。/「もう一ぺんただうなづいて見せた」で、「もう一ぺん」とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである。(中略)ところがしかし、読者の質問の手紙にうながされて、疑問の個所を読んでみると、「私」か踊子か迷ふのももつともだと、私ははじめて気がついた。「私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた」では、「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。
つまり、この文章の中で川端は、@「もう一ぺん」という表現が、その前の幾度かの踊子のうなずきをコンテクストとして、主語が踊子であることを示している、A「私は」ではなく「私が」と表現してあることから、「私」が主語であるのは「……振り返った時」までで、そこで当然主語が入れ替わることが文法的に判断できる、という二つの裏付けによって、この部分の主語が踊子であることを確認している。
確かに、この部分の主語は踊子であって、これを「私」と読んでしまうことは〈誤読〉以外の何ものでもないだろう。しかし、主語が踊子だとすると、逆に不可解な点が出てくる。それはほかでもない、「私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、(踊子は)さよならを言はうとした」という言説についてである。「私」から見て明らかに〈他者〉であるはずの踊子が口に出そうとして出さなかったことばが「さよなら」であったと、なぜ断定することができたのだろうか注10。私たち読者はこの言説に、ある種の〈揺らぎ〉を感じないではいられない。
川端は先程の引用部分に続けて、次のように述べている。
……「伊豆の踊子」は近年もいろいろの形で新版が出たが、私はそこの主格を省略したままで通した。主格を入れる入れないの部分が、気をつけて読むと、不用意な粗悪な文章だからである。主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬやうに思へるからである。(中略)「伊豆の踊子」はすべて「私」が見た風に書いてあつて、踊子の心理や感情も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して」と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である。(中略)こんな風だから、主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである。
このことばは何を意味しているのか。先程の引用部分では「私はこの質問が思ひがけなかつた」と書いているように、作者である川端は、この別れの場面を何の問題を感じることもなく執筆し、ほとんど無意識的に「(踊子は)さよならを言はうとした」と表現した。それが、いざ改めて一人の読者の立場で作品と接してみた時、自分自身の手で執筆したはずのことばが物語世界の中で自己の意識を超えて、作品全体の構造にまで影響を及ぼしていることに初めて気付かされたのである。しかし、作者である川端もこの状況をどうすることもできない。部分的に訂正を施そうとしても、「全篇ががたがたして来さう」になって、結局、作品そのものが成立しなくなってしまう。つまり、別れの場面における言説についての川端のこのことばは、一方で『伊豆の踊子』という物語世界に対する作者の限界――作品から疎外される作者の実態を暴露しているのと同時に、その裏返しとして、この言説に接したときの一読者のうろたえをも如実に物語ってくれているのである。
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〈揺らぎ〉の本質は何なのか。「さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた」というこの短い言説で、いったいどのような出来事が起こっているというのか。
冒頭で少し触れたように、私は以前の論文注11において、『伊豆の踊子』の〈語り〉の構造を、物語世界から隔たった位置にいる「語り手」の《私》が、物語世界内の「私」の〈視点〉に寄り添いながら行なっているものとして検証した注12。そして、その構造を確認した上で問題となっている部分の前後を考察してみると、「はしけはひどく揺れた。……踊子が白いものを振り始めた」というこの段落全体が、基本的には「語り手」である《私》の独自の〈視点〉と物語世界内の「私」の〈視点〉の両方を併せ持った言説から成り立っていることがわかる。つまり、「はしけはひどく揺れた」という言説からは、〈はしけの揺れ〉を〈今〉まさに〈実感〉している物語内容としての「私」の意識とともに、(自己同一的には物語世界内の「私」とのつながりはあるものの)それとは隔たった物語行為の次元で〈事実〉を客観的に秩序付けながら語っている《私》の意識を同時に〈読む〉ことができるのだ。
それでは問題の部分そのものについて、まず物語内容の次元から考えてみよう。すると、物語世界内の「私」は、〈さよならを言おうとしたが、それも止して、ただうなずいて見せる踊子の行為〉を〈今〉自らの感覚で認識していることになる。しかし、ここに現実世界における日常的解釈コードをあてはめるなら、踊子の〈口に出そうとして出さなかったことば〉を「さよなら」であると認識することは全く不可能なことであり、それを行なっている「私」は、言わば一種の〈狂気〉の状態で踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならない。だから、もしこの〈狂気〉的状況を否定しようとするならば、私たちは日常的解釈コードを放棄して、この〈狂気〉を受け入れるための新たな解釈コードを自ら編み出さなければならない。ただし、そのコードの組み替えによってこの〈狂気〉を何らかの形で受け入れたとしても、その〈組み替え〉という操作そのものが「私」の〈暴力性〉の〈隠蔽〉という行為を内包してしまうことは避けられない。
では、物語行為の次元ではどうだろうか。物語世界内の「私」が仮にどのような認識を行なったにしろ、「語り手」が現実的コードに基づいて〈語り〉を行なっている存在――つまり、充分に現実性を帯びた人格的存在であるならば、この部分は恐らく「何かを言おうとしたようだが、……」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが……」というように言説化されたはずである。ところが、実際に私たち読者の目の前にあるのは、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、……」という言説なのだ。「語り手」はこの部分で「私」にとって完全な〈他者〉である踊子の〈視点〉に同化してしまっている。そしてこのことは同時に、物語世界内の「私」と「語り手」である《私》の自己同一性の崩壊=《私》そのものの崩壊を意味しているにほかならない。
私たちが感じた〈揺らぎ〉(それは作者である川端自身が随筆の中で告白していた感覚にもつながる)は、『伊豆の踊子』という物語世界を人格的に統轄し安定させる存在として私たちが無意識に想定していた《私》なる「語り手」が、実は全くの虚像であって、擬制としてすら想定しえないものであるということを、私たち自身が悟ったことから生じているのだと言えるだろう。そして、このことを悟った私たちは、《私》という「語り手」そのものが融け去った状態で物語言説のみが作用する中に、現実的解釈コードでは理解不可能な「私」と踊子のコミュニケーションを目前に押し付けられつつ、物語世界全体を改めて解釈し直さなければならない事態へと追い込まれるのである注13。
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そもそも、小説をも含めた物語というものが一つの安定したシステムとして成立しているのは、冒頭に述べたような「物語内容の物語言説に対する優位性という仮構」が、共通の文化として私たち共同体の中に育まれているからだとも言える。私たちは、目の前にある言説(それは突きつめればページの上の文字の羅列に過ぎない)をもとに、それに先行する物語内容があたかも存在するかのごとく〈錯視〉しているだけなのであり、その〈錯視〉というトリックを無意識的に受け入れることで、〈読む〉という文化的行為が可能となっている。従って、小説や物語といったものは一般に、その〈錯視〉がスムーズに遂行されるような何らかの構造を備えているはずなのであり、「語り手」という機構も言わばその中の一つにほかならないのである。
ところが、ここまでに見てきたことからわかるように、『伊豆の踊子』という作品は、それ自体の構造が「語り手」という存在を打ち消してしまっている。つまりこの作品は、(多くの一人称小説がそうであるような)一定の人格を有する《私》が「語り手」となり、人格的につながった存在である過去の「私」(それは、時空がどれだけ離れているかに無関係である)を〈起源〉とする物語行為を行なうという安定した構造をむしろ取り去ってしまった、本来非常に不安定であるはずのところに成り立っていることになる。いったい『伊豆の踊子』という作品を支え、今私たちの目の前にあるような形に言説を導いているものは何なのか。
私はそれが、互いに異なる志向性を帯びた複数の〈語り〉の葛藤によって生じるダイナミズム=〈語り〉の力とでも呼ぶべきものではないかと考える。
ここで再び前出の拙稿に戻ることになるのだが、私はその中で、『伊豆の踊子』には〈「私」の孤児根性の克服と自己回復の物語〉としてそれを生成しようとする〈語り〉の他に、それとは全く別の立場で〈「私」が旅芸人達との差異を自覚していく物語〉を語り出そうとしている〈語り〉の志向が同時に存在し、両者が反駁したり引き合ったりしながら微妙に絡み合って動いていく力関係があることを指摘した注14。そして、その時私は、その多重的な〈語り〉を導くものとして、非人格的地位を確保しつつある《私》を漠然と想定していた。しかし、ここで再び、《私》が融解した先に〈神のごとき語り手〉を仮構したところで、事態は一向に収拾されはしない。むしろ、作品構造としてそこにあるのは、「私」の物語をある一定の方向へ導こうとする複数の〈語り〉のベクトルそのものなのだ。そして、その〈語り〉は、それぞれが言わば安定した〈話型〉(とでもいうべきもの)へと自らを展開しようとする言説そのものの自律性を有しているとしか考えられない。『伊豆の踊子』は、複数のそのような自律的な〈語り〉の葛藤によって生じるダイナミズムの〈軌跡〉として、辛うじて形を保っているに過ぎないのではなかろうか。
例えば、冒頭の部分を見てみよう。「道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、……」という言説は、「峠の北口の茶屋」での「私」の「旅芸人の一行」との遭遇につながり、その〈「私」と旅芸人達との出会い〉から『伊豆の踊子』という物語は開始される。そして、私たち読者の意識も、この冒頭の言説にかなり支配されて、この偶然の出会い(実際は、偶然であるかのような印象を与えるに過ぎないのだが)から物語をたどり始める。しかし、次の部分に移ると、「私はそれまでにこの踊子たちを二度見てゐるのだつた。最初は湯ヶ島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会つた。……私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思つた」という言説によって、もう一つの出会い――〈旅情〉を媒介とする〈踊子たちとの出会い〉が示される。一見、この二つの出会いはそれほど重要な意味を持つとは思われないが、実は、〈一高生の「私」〉対〈旅芸人の一行〉という構図は、旅芸人達との心の交流による一体化を通して〈「私」の孤児根性の克服と自己回復の物語〉が遂行されるために必要とされる初期設定なのであり、その後の言説が示す〈踊子たちによって旅情を誘発された「私」〉対〈踊子たち女旅芸人〉という構図は、栄吉から彼ら芸人達が家族集団であることを聞かされる場面を経て、先程とは全く別の方向性を持った〈「私」が旅芸人達との差異を自覚していく物語〉へと展開されていくのである注15。ただしこの部分では、たいていの読者の意識は、リニアな文字の配列の中で先に言説化された〈「私」と旅芸人達との出会い〉に大きく支配されてしまう。しかし改めて考えるなら、〈「私」と踊子たちとの出会い〉によって生じた「旅情」から『伊豆の踊子』がスタートすることも可能性としては充分にあったのであり、両者の微妙な力関係の中で、冒頭部分は、「天城峠」を境界線として〈暗〉から〈明〉への〈「私」の心的成長〉を語り出そうとする〈語り〉にリードされる形で言説化されたと考えることができる。しかし、いずれにしろ私たちは既にこの冒頭において、二つの出会いによって開始される多重的な〈語り〉の微妙な関係の中に〈読み〉を生成していくことを強いられるのであり、そのダイナミズムこそが物語世界を構築しているのである。
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この二つの〈語り〉の志向は、その後も、それぞれの〈話型〉へと自らを導いていこうとする自律性を維持しながら葛藤を続けていく。例えば、第五章の終わりに次のような言説がある。
私の噂らしい。(中略)顔の話らしいが、それが苦にもならないし、聞耳を立てる気にもならない程に、私は親しい気持ちになつてゐるのだつた。暫く低い声が続いてから踊子の言ふのが聞えた。/「いい人ね。」/「それはさう、いい人らしい。」/「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」/この物言ひは単純で明けつ放しな響きを持つてゐた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だつた。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た。(中略)世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言ひやうなく有難いのだつた。(中略)/途中、ところどころの村の入口に立札があつた。/――物乞ひ旅芸人村に入るべからず。
旅芸人達との一体化を通して〈「私」の自己回復〉を図ろうとする〈語り〉の志向によって、「いい人ね」という踊子のことばを聞いた「私」が「自分をいい人だと素直に感じることが出来」るようになったことが言説化された直後、いきなり「物乞ひ旅芸人村に入るべからず」という立札が登場するのだが、ここに含まれる〈旅芸人達との隔たり〉を意識させる視線は、まさに、その直前の言説に反駁し、それを無化してしまうような危うい〈力〉を備えている。そして、先程一応の〈自己回復〉を実現した〈語り〉の志向は、その後第六章に入って〈旅芸人達との一体化〉を裏付けるかのように、「私」に大島の自分達の家に来ることをしきりに勧めるおふくろのことばを言説化する。
しかし、これに反して物語の大きな流れは、「私」が栄吉に法事に参加できない見返りとしての包金を渡した後、「私は明日の朝の船で東京に帰らなければならないのだつた。旅費がもうなくなつてゐるのだ。学校の都合があると言つたので芸人達も強ひて止めることは出来なかつた」と、いきなり〈一体化〉とは全く逆に、一方的な「私」の旅芸人達との別れが言説化されることで、この第六章以降急速に「私」と旅芸人達との別れに向かって進んでいく。つまり、〈旅芸人達との差異を自覚して彼らとの離別の方向へ進む「私」〉を描こうとする〈語り〉の志向が、終末部分の大きな動きを支配し始めるのだ。そしてそこには、〈一体化〉と〈離別〉という二つの方向性を一つの物語として結び付けるような因果関係はどこにも存在しないのであり、ただ「旅費がもうなくなつてゐる」とか「学校の都合」といった曖昧なことばによって、表面化した〈齟齬〉が辛うじて取り繕われているに過ぎない。
そもそも冒頭部分の二つの〈出会い〉によって開始された二つの〈語り〉は、一方は〈旅芸人達との出会い〉→〈人間的交流による一体化〉→〈孤児根性の克服と自己回復〉という「私」の〈精神的成長=現状の脱却〉を安定した〈話型〉として志向するのであり、もう一方は〈踊子たちとの出会い〉→〈家族である旅芸人達との差異の認識〉→〈旅芸人達との離別〉という「私」の〈非日常から現状への回帰〉を安定した〈話型〉として志向している。前者が境界線を突破して異世界へシフトする「私」の軌跡を必要とするのに対し、後者は境界線に踏み込みながらも異世界から再び元の世界へとUターンする「私」の軌跡を必要とする。物語が終末に近づくにつれて、この二つの〈語り〉が全く別の方向へと展開していくのは当然といえば当然の事態であり、その葛藤によって生じる〈齟齬〉が作品全体の不安定さを増していくことも避けられない現象なのだ。そして、その不安定な構造そのものが露呈されざるを得なかったのが、「私」と踊子の別れの場面であったと言えるだろう。
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別れの場面の言説化そのものは、「私」の現状への回帰を志向する〈語り〉にとっては最終的には必要不可欠なものであるが、一方で「私」と旅芸人達との一体化(=「私」の自己回復)を保持しようとする〈語り〉にとっては、その〈話型〉自体を壊しかねない危機的な状況を作り出すことになる。「私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた」という言説は、まさにそのぎりぎりの状態の中で生まれてきたのである。そこでは「私」と踊子の〈離別〉とともに、まるでそれを阻止するかのように「私」と踊子の心理的〈一体化〉が示される。それは、先に述べたようにあくまで現実世界の解釈コードでは認識不能な〈事実〉として、いわば「私」の踊子に対する一方的な一体化の夢想として呈示されるのであり、「私」の意識の肥大化と〈他者〉である踊子の抹殺とを前提にしているのだが、読者である私たちは解釈コードの組み替えによってそのような「私」の〈暴力性〉を隠蔽し、〈抒情的空間〉とでもいうべきものとしての物語世界を辛うじて受け入れることになる注16。
『伊豆の踊子』の最後には、踊子や栄吉との別れの後、夜の船室で隣り合わせた少年のマントに包まれ、彼の体温に温まりながら涙を出委せにする「私」の姿が描かれるのだが、既に伊豆の旅を終えた「私」を、ここでどうして言説化する必要があったのだろうか。私はここにも〈語り〉の葛藤を見ることができるように思う。恐らく〈「私」の自己回復〉を志向する〈語り〉は、先程の別れの場面だけでは、自らの〈話型〉を安定して終結させることができなかったのだろう。「私」の意識はここで、「清々しい満足」「美しい空虚な気持」「何もかもが一つに融け合つて感じられた」「何も残らないやうな甘い快さだつた」と、立て続けに言説化される。無論ここで示される「私」の充足感は、〈踊子との一体化の夢想〉に基づく〈虚像〉に過ぎないのだが、踊子の〈形代〉としての少年を媒介とすることで、「私」の〈自己回復〉は漸く維持されるのである。まさに『伊豆の踊子』の輪郭はこのような〈語り〉の葛藤の軌跡として形作られていると言えるだろう。
以上見てきたことから、私がこの論考の冒頭で提示した仮説は一応証明できたのではないだろうか。少なくとも『伊豆の踊子』は、自己の〈過去の事実〉を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという一般的な一人称小説の構造などには還元できない、むしろそのような主体を疎外する〈語り〉そのものの〈力〉によって支えられているのであり、多重的な〈語り〉の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎないのだ。そこでは既に、物語内容の物語言説に対する優位性という仮構は崩壊してしまっている。
このような構造を持つ『伊豆の踊子』が、川端文学全体の中でどのような役割を果たしているのか、或いは大正末年という同時代の文学の中でどのような位置を占めるのか。また、ここで〈話型〉と表現したもののルーツはどこにあるのか。課題は尽きないが、それらの考察については次の機会を期すことにしたい。
注1 この点に関して、川嶋至氏は「青春の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」(『川端康成の世界』昭44・10)の中で、「いかなる文学も、詮ずるところ、その源は作者の体験にあるという考えが、常に私の念頭を去らない」と、自らの文学に対する態度を述べている。
注2 藤森清『語りの近代』(平8・4)には、この点に関して、「この「語り」という操作概念をめぐって先駆的な仕事を展開した小森陽一は、一九八八年にその仕事を『構造としての語り』『文体としての物語』にまとめた。また一九九〇年には、『日本近代文学』が「《語り》の位相」という特集を組み、一九九一年と一九九四年には、二度にわたって『解釈と鑑賞』が「近代文学と『語り』」の特集を組んだ」との言及がある。
注3 『語りの近代』(平8・4)
注4 近代文学研究におけるナラトロジーの先駆者である小森陽一氏自身、「テクスト論」についてのシンポジウムの中で、「ナラトロジーに関しての、「小森陽一」の犯罪性を言えば、やっぱり『浮雲』論以下のもので、語り手をあたかも単一な実体としてくくりだすような論述の仕方が、非常に多いですね。あれはきわめて有害であると(笑)、感じるわけです」(小森陽一・中村三春・宮川健郎編『総力討論・漱石の「こころ」』平6・1)と発言している。
注5 遠藤健一「物語論の臨界―視点・焦点化・フィルター―」(三谷邦明編『近代小説の〈語り〉と〈言説〉』平8・6)
注6 福井大学国語学会「国語国文学・第36号」(平9・3)に発表。
注7 川端康成著。「文芸時代」大正15年1・2月号に『伊豆の踊子』『続伊豆の踊子』として分載。後、短篇集『伊豆の踊子』(昭2・3、金星堂刊)に掲載された。
注8 川端康成の文章からの引用は、すべて三十五巻本『川端康成全集』に拠り、旧字体は適宜新字体に改めた。
注9 「『伊豆の踊子』の作者」(「風景」昭42・5月号〜昭43・11月号)
注10 E・G・サイデンスッテカー氏による『伊豆の踊子』の英訳では、“I wanted to say good-by, but I only nodded again.”となっていて、この部分の主語は「私」として訳されている。
注11 前出の拙稿「『伊豆の踊子』論―〈語り〉の多重的構造について―」(福井大学国語学会「国語国文学・第36号」平9・3)
注12 注11の拙稿の中では便宜上、「語り手」としての〈私〉には《 》を用い、語られる〈私〉には「 」を用いたので、ここでも一応それに合わせることにする。
注13 村松定孝氏は「川端康成の連歌的手法(一)『伊豆の踊子』の主格をめぐって」(「形成」昭43・1)の中で、この別れの場面について、「さよならを言はうとした」の前に「踊子は」という補訂は無用であり「彼女が物云はず唇をきっと閉ぢて涙を耐へてゐる趣きが十分にしのばれます」という、氏が川端に送った手紙の内容を紹介した後、「もう一人の作中の『私』ではない、過去を、己の青春を回想する作者の眼が全体を眺めているわけで、『私』は作者の仕型話の中の人物なのである」と述べている。ここで氏が「作者の眼」と言っているものは、物語の統轄者である「語り手」の《私》につながると考えられる。しかし、ここで考察したように、むしろ『伊豆の踊子』は「過去」や「己の青春を回想する」人格的存在としての〈主体〉そのものを疎外する構造を持っているのである。
注14 注11の拙稿では、この二つの〈語り〉の志向の他に、〈死を意識しそこから逃れられない「私」の姿〉を描こうとする〈語り〉の存在を指摘したが、この第三の〈語り〉の志向については別の機会に論及することとし、ここではそれを除いた二つの〈語り〉の志向性に絞って論を展開していくことにする。
注15 この点に関しては、注11の拙稿に詳しい論述がある。
注16 注13に引用した村松氏のことば(「彼女が……涙を耐へてゐる趣きが十分にしのばれます」)は、まさにこのようなとらえ方の典型を示していると言ってよいだろう。
(「金沢大学国語国文」第23号;1998.2)