相対化する〈リアリティー〉―第六次「新思潮」の川端作品をめぐって―(下)
三川智央
本稿は、前号に掲載した「相対化する〈リアリティー〉――第六次「新思潮」の川端作品をめぐって――(上)」に引き続き、第六次「新思潮」に発表された川端作品について論を展開していくことにする。
1
第六次「新思潮」の第四号に発表された『油』注1は、作者である川端自身が後に「孤児としての私の私小説と見るべきであらう」と述べ注2、これまでの研究においても、中村光夫氏が「小説というより作者の生のままの自己省察であり、氏の意識の構造から、ひいては生きる態度を端的に語ってい」て「氏が薄倖な少年期の感傷から脱して一個の大人に成熟する転機が、直截に述べられている」と規定している注3ように、もっぱら〈孤児〉としての作家「川端康成」を裏付ける自伝的資料として扱われてきた。つまり『油』は、〈小説〉というジャンルに分類されながらも、実際には〈孤児〉という生い立ちを背負った作者自身の心境のあるがままの〈告白〉として読まれ、解釈され続けてきたといえる注4。しかし、『ある婚約』や『招魂祭一景』といった作品を通して前稿で考察を行ったパラダイムとしての〈リアリティー〉という地平からこの現象を眺めてみた時、そこには一つの問題が浮かび上がってくる。それは、『油』という作品が(このような解釈の前提となるべき)強固な事実性を、どのようにして獲得できたのかということである。
実は川端は、『油』を「孤児としての私の私小説」とした先程の言葉に続けて、それとは全く逆の意味とも受け取れる、「『油』も大方つくりごとである。父か母かの葬式の時に私が仏前の燈明をいやがつたと、これだけを伯母から聞いて書いた。私の油嫌ひその他みなつくりごとである。割にほんたうらしくつくつてあると思ふ」という言葉を述べ、また『油』に書かれている「私」の感情についても、「感情は言葉に捉へがたく、言葉に書いてみればかうとでも書きたいといふ、やはり修辞に過ぎなかつたのかもしれない。私はこれほどには『孤児』に拘泥してゐなかつたやうである」と述べている。作品に書かれていることと川端自身の現実の一致という外部的判断によって、『油』の〈リアリティー〉が保証されているわけでは決してないようである。すると、私たち読者が『油』に対して抱いている事実性というものは、いったい何処から生じているのだろうか。この問題を解く鍵は、どうやらこの作品の〈語り〉の構造と、それに基づく〈読み〉そのものの中にあるように思われる。
冒頭の言説からその〈語り〉の構造を分析してみよう。
父は私の三歳の時死んだ。翌年母が死んだ。両親に関する直接の記憶は全くない。母はその写真も残つてゐない。ところが半年程前、東京に住む伯母からこんな話を聞いた。――父及母の死の前後、私は家の賑かになつたのを子供らしく喜んでゐた。唯、佛前での鉦の音を非常に厭がつた。泣きむづかつて鉦を叩くのを止めさせた。それから佛壇の燈明を消させた。消させた上に、蝋燭は折らせ、かはらけの油は庭の土に覆して了ふまで疳を鎮めなかつた。これで父の葬式には母を怒り泣きさせたさうである。母の葬式にも同じことで祖父母を困らせたさうである。注5
この言説を通して私たちがまず気付かされる(気付かないではいられない)のは、「私」という作中の人物がそのまま語り手としての地位を確保することによって実現された、語り手の圧倒的な実在感とでもいうべきものである。同じ一人称の小説言説であっても、語り手がこのような実在感を帯びるためには幾つかの条件が必要になってくる。その点を、志賀直哉の『城の崎にて』注6の言説を例に、それとの比較を通して考察してみよう。
或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴつたりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がつてゐた。他の蜂は一向に冷淡だつた。巣の出入りに忙しくその傍を這ひまはるが全く拘泥する様子はなかつた。忙しく立働いてゐる蜂は如何にも生きてゐる物といふ感じを与へた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転つてゐるのを見ると、それが又如何にも死んだものといふ感じを与へるのだ。それは三日程その儘になつてゐた。それは見てゐて、如何にも静かな感じを与へた。淋しかつた。他の蜂が皆巣へ入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。然し、それは如何にも静かだつた。注7
同じ一人称ではあっても、この『城の崎にて』の言説における「自分」は実際に物語行為を行なっている語り手としての《自分》そのものではない。あくまで「自分」は、「或朝」で始まる物語世界内の時空にいて、自分自身の目で「一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居る」様子をつぶさに観察し、それによってある心境に至っている物語内容としての存在なのであり、物語世界内の彼自身にそういった自己の行為のすべてを対象化して〈語り〉を行なう余地はない。読者はこの小説を〈読む〉ことを通して、おのずとそこに、作中の「自分」とは自己同一的に繋がっていながらも、物語世界の時空とは異なった位相にいて出来事を対象化しつつ語っている別の《自分》=語り手の存在を想定しないわけにはいかないのである。
そもそも、『城の崎にて』のような小説言説注8は、語り手が特定の作中人物の感覚や意識に同化して語り手の存在を消し去る(実際には消し去ったかのように感じるだけなのだが)ことで物語世界内に唯一絶対的な視点を獲得し、そのパースペクティヴに基づいて〈語り〉を遂行することで、読者にあたかも自分自身がその物語世界を体験しているかのような感覚(=臨場感)を与えることに成功していたのだが、そういった〈リアリティー〉の形式は同時に、〈不在を装う語り手の存在の隠蔽〉というトリックを構造的に内包することになる。そして、このような〈リアリティー〉のパラダイムに読者が誘い込まれている場合はよいのだが、もし、読者がそのトリックに気付いて、それが単なる修辞(レトリック)に過ぎないことを意識し始めた時、暴き出された語り手と視点人物とのズレは、埋めることのできないものとして物語内容そのものの事実性までをも脅かすことにつながる。
それに対して『油』はどうだろう。「父は私の三歳の時死んだ」という冒頭の言説において提示される「私」は、自分自身の〈過去〉を打ち明けている語り手であると同時に、語られている対象でもある。つまり、『油』における物語世界の時空は〈語る現在〉と一致していて、言説化された「私」と言説化している《私》のラグはほとんど読者には意識されず、「私」は実際に物語行為を行なっている語り手として読まれていくことになる。読者は『油』の言説をたどることで、「半年程前」伯母から聞いた「こんな話」を〈今〉目の前で打ち明けている「私」の存在を実感しながら、語り手である「私」と向かい合ってその個人的情報を受け入れる聞き手の立場に引き込まれる。『油』に対して読者が感じていた告白的な要素は、実は作品そのものに内在されているこのような〈語り〉の在り方によって生成されていたと言えるだろう。そして、この〈告白〉という形式は、〈告白〉されるべき〈過去の体験〉や〈自己の内面〉などといったものが、動かしがたい〈事実〉として、物語行為以前に存在しているかのような感覚を読者の意識の中に生み出す注9。言はば、〈告白〉の〈リアリティー〉とでもいうものが『油』という作品を支えているのだ。
2
『油』の事実性は外部的な要因に基づくのではなく、あくまで〈語り〉の構造と、その〈読み〉の中で生成されている注10。しかし、このような〈告白〉の構造によって形作られる〈リアリティー〉は、何もこの作品によって新たに発生したパラダイムなどではない。これと同じ構造に支えられた小説は、『油』以前にも数多く見られるはずである。すると『油』は、既成の〈リアリティー〉の形式に依存し、その安定した制度の中で生まれてきた何の変哲もない作品として片付けられてしまうことになるのだが、果たしてそれでよいのだろうか。私はこの作品には、もう一つ大きな問題が残されているように思う。
父母に就ては多くの人達からよく聞かせられる。が、自分に直接関聯してゐることの他は大抵直ぐ忘れる。忘れないのも覚えて置かうと思ふからで、話自身の方からその力で識らず識らずの間に心に生き残つてゐるのは一つもない。如何にもあつたらしいと言ふ気を起させない。他人の追懐と殆同じだ。のに、伯母の話はつつと電のやうに、三四歳の私をぐつと引寄せ、暗闇の当時をぱつと明るくした。私のその頃の姿に外ならないものを初めて鮮かに見せた。伯母に聞くまで思ひもつかなかつた此を経験の記憶とは言ひ得まい。しかし其後思ふ度にも、人聞きなのを忘れ、自分で記憶してゐたかのやうに親しい。かはらけを持ち手を油で汚してゐる私の幼い泣面がありあり浮んで来る。油を零したのは確にあの座敷の縁先の手水鉢の横だつた、などと心が意気組んで来る。
先程引用した冒頭部分では、「両親に関する直接の記憶は全くない」という「私」が、伯母から自分自身の〈過去の出来事〉を聞かされたことが言説化されていた。そして冒頭に続くこの部分では、その伯母から聞かされた〈過去の出来事〉が現在の「私」の意識の中に「私のその頃の姿に外ならないもの」(「かはらけを持ち手を油で汚してゐる私の幼い泣面」や「油を零したのは確にあの座敷の縁先の手水鉢の横だつた」ということなど)を「鮮かに見せ」て、それを自分自身の「記憶」であるかのように「私」が認識していることが語られている。しかし、ここで注意しなければならないのは、「私」は自分の意識の中に現れた「私のその頃の姿に外ならないもの」を決して自己の「記憶」とは言い切っていないということ――つまりは、それがあくまで「伯母の話」の「力」によって形作られた一つのイメージでしかないということである。
そしてさらに、そのイメージの事実性は次の言説で論理的に否定される。
……しかし考へると、父母の死んだのは淀河べりの家である。今思ひ画くのは淀川から数里北の山村の家の縁先である。(中略)場所も手水鉢の横に限らない。私がかはらけを持つてゐたより、母か祖父母の手にあるべきである。父の時と母の時との二度が一度として、或は同じ繰返しとしてしか思ひ浮べられない。
ところがこのイメージは、既に論理的事実性を失っているにもかかわらず、「私の感情は却つて怪しいなり曲つたなりを鮮明に真実として懐しんでゐる」という状況を生み出してしまう。そして、この「真実」とされたイメージは、それまで「単に其事柄として」ばらばらに存在していた幾つかの出来事――@「私」を礼拝させる時に燈心の灯を蝋燭に点け変える祖父の習慣、A今日まで続く「私」の油嫌い、B燈明に関する「私」の悪夢――に、「父母の死を悲しむ幼心」という共通の〈起源〉を与え、現在の「私」の内面に「父母の死で受けた痛」という克服すべき〈事実〉を生成する。つまり、〈油嫌い〉という現在の〈私〉の状況は「父母の死」という過去によって裏付けられて、初めて克服可能な実体を伴ったものとなり得たのである。
これまで、『油』に描かれた「私」の油嫌いの克服については、中村光夫氏が「その原因が、父母の葬式の記憶にあることに気付いて、それから脱出する」と述べ注11、佐伯彰一氏が「肉親の死と結びついた無意識の記憶から発していたと気づいてから、消え始める」と論及している注12ように、過去の事実が明らかになったことで油嫌いの原因が判明したためと、単純に解釈されてきた。しかし、ここで考察したように、現状の克服を可能にしている「私」の〈内面の事実〉は、実は「伯母の話」の「力」によって「私」の意識に形作られた〈イメージ〉を、過去の〈真実〉にすり替えることで作り出されたものなのだ。
……験に菜種油臭い物を食べてみようと思ひ立つた。そして不思議に食べられるやうになつた。種油を買つて来て指の先につけ、なめてみたりした。臭も敏感に鼻に来ても気にならなくなり出した。「この調子、この調子」と私は叫ぶ。この変化も色んな風に考へられる。父母の死と関係なく生来油が厭だつたのに、助かつたなと喜ぶ心が打勝つて、何でもなくなつたとも言へる。しかし、父母の死を悲しむ幼心がふと佛前の燈明に宿り、その油を覆したことから、油を憎み、その因果関係を忘れながらも油を嫌つてゐたのが、偶然再び結びついたためだと無理にも思ひたい。「油からだけは脱れましたよ」と痛傷の一つを実に明白に癒した例証として信じ、誇大して自分を甘やかしたい。
『油』で「私」が言説化した出来事は、決して安定して存在する〈事実〉などではない。むしろそこに語り出されているのは、絶対的な〈事実〉の存在に対する「私」の不信なのであり、その内面の〈空白〉を埋めるために〈神話としての事実〉を自らの意識の中に創造しようとする「私」の行為なのではなかろうか。〈油嫌い〉という状況一つにしても、それに対して「色んな」認識が可能なように、自らの出来事に確かな輪廓を与える唯一絶対的な〈事実〉など存在しない。「私」はそのことを充分に自覚しつつも、〈事実〉不在の不安から来る自意識に堪えきれず、レトリカルに創り上げた〈イメージ〉の体系を「信じ」ることで、辛うじて自分自身を前向きに解釈しようとする。
『油』の中の「私」――つまりこの小説言説そのものの語り手でもある「私」は、親密な聞き手としての立場に誘い込まれた私たち読者に、〈事実〉としての〈過去の体験〉や〈自己の内面〉を〈告白〉しようと(少なくとも最初の時点では)目論んでいたのかもしれない。しかし、言説をたどるうちに、私たちは〈告白〉された〈事実〉の非=事実性に気付かざるを得なくなる。所詮、〈自己の内面〉や〈体験〉は「……無理にも思ひたい」「……信じ、誇大して自分を甘やかしたい」という願望の先にある〈虚像〉でしかないのであり、「この調子、この調子」と叫ぶ「私」の前向きな意識も、レトリカルな響きしか持たなくなってしまう。つまり『油』という作品は、〈告白〉という形式が生み出す〈リアリティー〉そのものを、その〈告白〉された内容自体が相対化してしまいかねない危うさの中に成り立っていると言えるだろう。そこでは〈事実〉は所詮レトリックに過ぎないのであり、〈告白〉される〈内面〉など何処にもありはしないのだ。
3
〈告白〉型の小説言説の〈リアリティー〉を支えていたのは、読者の目の前に具現化された一人称の語り手の存在であり、その言表主体の〈事実〉に対する揺るぎない信頼こそが、語られる内容の強固な事実性を保証してきた。しかし『油』の場合、その言説を通して私たち読者が垣間見るのは、〈事実〉というものが実はレトリックとしてしか存在し得ないことを自覚していながらも、〈語る〉ことによってその不在の〈事実〉を何とか埋めようと、虚しい努力を続けている「私」の姿なのである。このような状況において、〈告白〉の〈リアリティー〉というものは既に相対化し、その力を失ってしまっていると言えるだろう注13。
そして、『油』の次に「新思潮」に発表された『一節』という作品注14は 、実は、このような〈リアリティー〉の相対化という点で、非常に興味深い構造を持っている。
『一節』は、「新思潮」掲載時の文末に「(「一」終り――「転生」の一節)」との記載がある注15ことからもわかる通り、本来は『転生』という作品注16の一部分として発表されたと思われるのだが、その後これに続く部分が作品化されることはなく、いわゆる未完のまま放置された作品である。従って先行研究もなく、その評価についても、作者である川端自身が後に「『一節』は恐らく理窟張つた難解の文章である」と述べた注17以外に評価らしい評価は何もない。しかし、〈語り〉の状況からこの『一節』という作品を眺めてみた時、川端が「難解」と評した小説言説を通して、そこに〈リアリティー〉をめぐる巧みな構造が形作られようとしていたことがわかるのである。
房代と共に住む月日の間に、室木の生活感情なり生活気分は、染め変へられてゐた。あらゆる物が新しい姿と心で写つた。父もその一つだつた。父と彼との直線な心の繋りの途中に、それを廻り曲らずには、或は透し越さずには、彼が父を見られないもの、そのものに房代がなつてゐた。父に秘密な日々を営んでゐることの自己苛責とか、房代のことを打明けた時の父の態度を案じる不安とかが、父を思ふ度に附き纏ふといふのでなく、房代と房代に面した彼の心身を一つの住居として、その中に閉ぢ籠つたままで、父をも眺めてゐたのだつた。父病気の手紙は、住居そのものを思ひ当らせると同時に、住居から室木を突然投げ出した。その時子の上に落ちかかつて来た父の感じは、房代と暮す前の同じものが戻つて来たに過ぎないのだが、今は微かながら不意の邂逅を語るものであり、面と向ふには微かながら妙な虚しさが加つたものであつた。此等は室木の神経に冷いものを走らせた。それから、四五日前、雇婆のお波が、息子の嫁の風邪で、孫の世話に帰つて行つたのも、神経に暗く来た。
ここに引用した作品の冒頭では、語り手は作中の人物である室木の視点に寄り添って、その物語世界内の特定の視点から、「房代と共に住む月日の間」に変化した「生活感情」や「生活気分」の一つとしての室木の意識の中での父の存在、そして「父病気の手紙」によって戻ってきた「父の感じ」や同時に生じた「妙な虚しさ」、神経に走る「冷いもの」など室木の〈内面〉を〈語り〉始める。そして読者は、このような〈語り〉の構造(この構造は、『ある婚約』などと同じである)においては、語り手と同じ位相で、室木を一定の視点とするパースペクティヴのもとに構築される彼の〈内面〉を〈事実〉として受け入れていくことになる。
ところが、このような安定した〈語り〉の状態は、次の言説において覆されることになる。
「室木のお父さんは、室木が心配してゐた程、本当に悪いんでせうか。」/自動車が駅前の広場から電車通りに出た時、伊原が云つた。/「ええ、悪いやうでしたら、電報を打つんですつて。」と、房代は外れた返辞をしてしまつた。/「あなたにですか。」/「ええ。」/「そしたら、あなたも須磨へ行かなければならないんでせう。」/「だつて、私……。」/かう云つて、房代は、彼女が若し室木の父に会へば感じるであらう恥しさを、心に浮べてみてゐる表情を正直に現した顔を、鳥渡伊原に向けてから、うなだれた。その科で房代が、伊原には子供つぽく見えた。伊原は、この少女の心と体の二つが、どれくらゐ大人で、どれくらゐ子供なのかが、はつきり受取れないのだつた。友人の室木と一つ家に起臥して愛人とも若い妻とも見える房代の位置が、眩しい背景になつて、此美しい少女の女性としての成長の明な図が、伊原には得られないのだつた。
冒頭の言説において、室木を視点とするパースペクティヴのもとに物語世界を構築し始めた読者は、ここへ来ていきなり視点人物である室木の不在に遭遇する。そして私たち読者は少なからぬ戸惑いの中、〈読む〉行為を続行するためにさまざまなコードを探りつつ、新たに発生した〈語り〉の在り方を模索しなければならなくなる。しかし、その模索はどうもそう簡単なものではない。そこで読者が出会うのは、まるで安定することを避けるかのように揺れ動く〈語り〉の位相なのだ。
「……伊原が云つた」「……房代は外れた返辞をしてしまつた」という言説において、語り手はどのような位相に想定され得るのだろうか。一見房代の視点に寄り添って、彼女を認識の主体として〈語り〉が行なわれているようにも感じられるのだが、その後の「かう云つて、房代は、……うなだれた」という言説では、語り手は房代の視点からでは認識不可能な彼女の外面的な「表情」や「顔」を語ってもいる。すると、先程の房代の伊原に対する「返辞」を「外れた」と認識しているのも房代自身ではなくあくまで独自の位相にいる語り手なのではないかと思われてくる。つまり、私たちがこの言説を通して、そこに何らかの事実性を感じ取るためには、冒頭で設定した〈リアリティー〉の形式を放棄して、別の〈リアリティー〉の形式(この場合具体的には『招魂祭一景』と同様、固定されない独自の位相に立つ語り手の語る行為そのものが事実性の保証となるもの)へ移行することが必要となってくるのだ。
けれど、そこで〈語り〉の位相が落ち着くわけではない。「その科で房代が、伊原には子供つぽく見えた」以降の言説では、語り手は今度はやはり作中人物の一人である伊原の意識に寄り添って、彼の視点から物語世界を構築し始める。そしてそこでは、房代は伊原の意識を介して「心と体の二つが、どれくらゐ大人で、どれくらゐ子供なのかが、はつきり受取れない」存在として、その事実性を獲得していくことになる。
4
『一節』という作品においては、この後も、房代の視点と伊原の視点、そしてそのいずれでもない語り手独自の位相に基づく〈語り〉が短いスパンで入れ替わりつつ、言葉を紡ぎ出して行くことになる。それは、まるで読者の意識の中に一つの絶対的な物語世界が構築されることを阻止するかのようでもある。
房代は、室木の父の容姿を思ひ画いてみようとしたが、室木から聯想しても、何も浮んで来なかつた代りに、室木一家が神戸に移る前の旧居の家屋敷と、それの所在する北摂津の田舎村と、彼女の母の生地である、その隣村一円の風物が心に拡がつた。そして、どうも親父は死にさうな気がする、と室木が云ふ神経的な不安が、何処から湧いたかも、房代は考へなかつた。/(中略)伊原の左側に出来た空席は、房代には広過ぎた。左端に席を占めるのも、伊原に寄り添つて坐るのも憚られて、房代は、身が腰掛けに落着かない気がした。襟巻に持ち添へた左手で口を掩ふやうに軽く首を縮めて、右手は膝に垂れた襟巻の端の毛糸の房を緩く掌にしてゐた。その膝に落された手を、手袋がつつんで、肘まで延びてゐるらしいのが、伊原の眼に、妙なもどかしさをもたらした。「指ごとに指さきまでも、わがくちづけし小さき手よ、静やかに手頸のほとり、わが唇の腕飾おきし手よ。」この詩の一節の偶然な反誦から、温い手袋を脱いだ房代の手と、室木に示すであらうその手の表情が、伊原に、さまざまに浮んでは消えた。
室木が父の病気の手紙を受けて神戸へ発った後、室木の友人である伊原とともに自動車に乗り込んだ房代の意識は、「室木の父の容姿」を思い描く努力から「室木一家が神戸に移る前の旧居の家屋敷と、それの所在する北摂津の田舎村と、彼女の母の生地である、その隣村一円の風物」へと流れていく。私たち読者は彼女の意識の中に入り込み、前の場面で言説化された「室木の父に会へば感じるであらう恥しさ」から引き続く室木の父へのこだわりと、室木と彼女との関係を暗示する田舎の風物への記憶によって彼女の〈内面〉を形作ることとなる。ところが、その彼女の〈内面〉は、「どうも親父は死にさうな気がする、と室木が云ふ神経的な不安が、何処から湧いたかも、房代は考へなかつた」という、語り手のある意味で横暴とも言える介入によって評価され、相対化されてしまう。また、一方で「房代は、身が腰掛けに落着かない気がした」というように、房代の視点を通して言説化された車内の状況は、語り手の視点(厳密に言えば、房代の視点と伊原の視点がそこには重なって現れている)による房代の外観の描写を介在して、今度は伊原の視点から彼の意識に妄想を生み出すものとして言説化される。このような状況において、私たち読者の中に形作られる世界は既に唯一の実体を失い、それぞれの主観の狭間で不定形に〈現象〉するものでしかなくなっている。
複数の視点(そこには独自の位相に立つ語り手の視点を含む)を通して物語世界が紡ぎ出される〈語り〉の構造を持つ作品は、文学の歴史の中では決して目新しいものではない。最も端的な例としては、田山花袋が明治四十一年に発表した『生』注18が挙げられるだろう注19。この作品は、老母の死を中心としてその肉親たちの様子を描いたものだが、語り手は独自の位相を確保しつつも、次男で小説家である銑之助の意識をはじめ、複数の作中人物の意識に自由に踏み込みながら〈語り〉を進めていく。しかし『生』の場合には、言説全体を統括しようとする語り手独自の立場が強く、また、それぞれの作中人物の視点を通して語り出された〈事実〉も、互いを相対化しつつ絶対性を消失して行くというより、最終的にはむしろ〈事実〉の共通性を通して肉親たちの〈繋がり〉を加工する方向へと収束する。
一週間目に其写真が郵便で届いた。割合によく写つて居た。立つた光子のが一番立派で、眉の長い細面の丸髷姿がすつきりとして居た。男の子をお佳が抱いて、お梅は自分の児を膝にして、二人並んで腰を懸けた。女の児の笑顔がいかにも可愛らしかつた。(中略)序に写真を蔵つて置く小箱が其処に展げられる。明治の初年に大阪で撮つたといふ大小を差した父親の写真はもう黄いろく薄くなつて居た。それに兄弟が三人揃つて撮した少年時代の写真、誰れだか解らぬ丸髷の女と一所に撮つた中年の頃の母親の写真、死んだ叔母の写真、嫂の写真、総領 の姉の写真は其頃流行つた種板其ままの硝子製で、木の框の壊れて取れたのを丁寧に母が白紙に包んで蔵つて置いた。其の他に昨年英男と一緒に写した母親の写真が一枚あつた。兄弟は皆なそれを手に取つて見た。注20
母の死の二年後、兄弟三人の妻たちが揃って撮った記念写真をきっかけに、親族全員が小箱の中の古い写真を眺めるところで小説『生』は終わっている。だが、この言説を注意して見ればわかる通り、「……よく写つて居た」「……一番立派で……すつきりとして居た」「……可愛らしかつた」などといった主観は、実は作中のいずれの人物の視点に基づくものでもない。それは、まるでそこに居合わせて共に写真を眺めているかのように振る舞い物語世界の内部に具現化した位置を獲得した語り手の独自の視点なのだ。が、読者はこの仮構された視点によって語り出される〈事実〉を、いかにもそれがここに居合わせた人々すべての共通する体験(意識)であるかのように錯覚して受け入れてしまう。『生』という作品の特徴は、作中人物の主観に基づく複数の視点が設定されながらもそれが充分に機能することなく、結局は具現化された語り手が介入することによって〈家族全体の共通意識〉という一種の〈幻想〉が生み出され、それが〈リアリティー〉を獲得することで絶対的〈事実〉となってしまう点にあると言えよう。
『一節』の言説を通して考察した視点の変化と〈語り〉の位相の〈揺れ〉が、『転生』という作品の中でその後どのように展開しようとしていたかを推測するのは不可能である。しかし、あくまで第六次「新思潮」に形作られた言説空間としての『一節』を考えてみた場合、そこに作用しているのは、これまでの一般的な小説言説が目指していたと思われる安定した〈リアリティー〉を生成しようとする方向とは全く逆の、むしろそのような〈リアリティー〉に基づく均一な〈事実空間〉を打ち崩して、言わば実体化不可能なものとしての相対的な〈リアリティー〉の世界を、読者の中に生み出そうとする力なのではないだろうか。
先に引用した伊原の妄想の場面の後、房代の視点に寄り添った位相での〈語り〉が比較的長く続くのだが、そこで伊原の口から房代の母の話題が出されたのをきっかけに、母に対する房代の〈内面〉が提示される。
……母の水死がさうであつたか、顔も覚えてゐないと云つても殆嘘でない房代が、十年前電気局の建物があつたかも思ひ出せず、知る筈はないが、さうした影のやうに死んだその姿が、房代を影のやうに訪れて来る。
幼い時に水死した母にまつわる「影」というおぼろげな輪廓を与えられた房代の〈内面〉は、しかし、決してその輪廓をより完全なものとされる方向へは進まない。
……母、母と云ふ発語を、実に不意に投げ込まれて、心の真底に、痛い響がした。そして、かうした時、房代は忙しく視点を意識的に滑動させるのでなく、眼を外したいものが視線の逃げる先逃げる先に執念く立ち現れるのを更に避け避け瞳を移すのでなく、唯瞳孔が浮動し、黒瞳の位置が変り視線の方向が変る度毎に、一度づつ異つた色を持つやうに見れば見える、それを室木は、その時には、房代それ自らの心は色を失ひ、幾人もの男と女の心が房代の瞳の底に犇めき、それが瞬間瞬間毎の表情で、房代の眼の面に去来出没し、房代の眸は、唯その奥にゐる男女の嘆きを見透す窓であると、正視し合ふに堪へず、房代の体が音を立てて壊れるほど、抱き寄せて、一念に、房代の心一つの表情に統一しようと祈願するのであつた。
この言説において房代は、室木という別の主体によって「幾人もの男と女の心」の「犇めき」としてレトリカルに語り出され「統一」されなければ存在し得ないものになってしまっている。房代という存在は、他者の認識とそのレトリックの中に辛うじて〈現象〉するものでしかないのだ。そしてこのような状況の中で、〈リアリティー〉というものは実在に裏付けられた絶対的なものとしての仮面を剥ぎ取られ、それ自体がレトリックに過ぎない主体間の認識によって相対的に生み出されるものでしかなくなったと言えるだろう。
『油』や『一節』は、多くの近代文学が前提としてきた絶対的な〈リアリティー〉というものの存在を相対化する可能性を持った作品だったと考えられるのだ。
5
以上、私は、第六次「新思潮」に発表された四つの川端作品(『ある婚約』『招魂祭一景』『油』『一節』)を考察することで、そこに文学の〈リアリティー〉というものをめぐる幾つかの状況を見出してきた。それは、一言で言えば、明治期以降の近代文学という領域において生成され、絶対視されてきた小説の〈リアリティー〉というものが、再び問い直され、相対化されていく状況であったと言えよう。前稿で『ある婚約』や『招魂祭一景』を通して論究したように、小説の〈リアリティー〉というものは文化的に作り出されるシステムにほかならないのであり、あくまでそのパラダイムの中でのみ有効なものであった。『招魂祭一景』は、特定の作中人物を視点とするパースペクティヴに安定した〈リアリティー〉を求めるパラダイム――それは明治二十年代に『あひびき』の周辺で発生し、『ある婚約』もここに属すると考えられる――とは全く異なる、語り手から聞き手への伝達行為そのものに〈リアリティー〉を求めるパラダイムに属しており、当時の読者の〈リアリティー〉についてのパラダイムを変容させる可能性を備えていた。また、この稿で論究した『油』と『一節』とはそれぞれに、小説の前提とされる〈リアリティー〉そのものが、実はレトリカルなものでしかないことを露呈する要素を内包していたと考えられる。
前稿の冒頭でも述べたように、これまでの文学研究において、川端の初期作品の評価及び位置付けは、「新感覚派」などの既成の文壇的枠組みによって行なわれ、それが文学的常識とされてきた。しかし、第六次「新思潮」の川端作品をめぐるこのような状況を考えてみた時、従来のような枠組みが、いかに不毛なものであるかが理解してもらえるのではないだろうか。少なくとも、従来の文壇的枠組みに縛られている限りは、ここで問題にした〈リアリティー〉という地平は見えてこなかったはずであり、第六次「新思潮」の川端作品も〈空白〉のまま見過ごされ続けたに違いない。しかし実際には、その〈空白〉を問い直すことで見出された〈リアリティー〉という地平は、この時期の川端作品だけではなく、〈自然主義〉や〈私小説〉といった既成の概念を相対化し、近代文学作品の評価を作品自体の〈語り〉の構造やその〈読み〉という点から一変させるだけの可能性を備えているのである。
注1 『油』は、第六次「新思潮」第四号(大10・7)に発表の後、加筆訂正されて「婦人之友」(大14・10)に再掲載されたが、ここではもっぱら前者に絞って論を進めることにする。
注2 十六巻本『川端康成全集・第二巻』(昭23・8)の「あとがき」。なお、この「あとがき」の中で川端は、「私の『孤児』の感想については『油』にかう書いてある」として『油』の一部を引用した後、「これが二十四五歳までの私の感情かと思ふ」とも述べている。
注3 『《論考》川端康成』(昭53・4)。中村氏は引用部分に続けて「氏は孤児であることの、必然かつ直接の結果として作家になったと云える」と述べている。
注4 太田鈴子氏が「川端康成の新感覚―『油』『葬式の名人』『孤児の感情』に関して―」(「学苑」平7・1)の中で、「自分の〈感情〉に関する認識を告白することにおいて「孤児としての私の私小説」と言うことができる」と述べているのも、基本的にはこの解釈の枠を離れていない。
注5 川端の文章からの引用は、すべて三十五巻本『川端康成全集』に拠り、旧字体は適宜新字体に改めた。なお、「新思潮」発表の『油』については、明らかに発表時の誤植と思われるものについては訂正を施した上で引用した。
注6 大正6年5月「白樺」に発表。
注7 引用は『志賀直哉全集・第三巻』(平11・2)に拠り、旧字体は適宜新字体に改めた。
注8 前稿で論述したように、『あひびき』などもこれと同じだと考えることができる。
注9 柄谷行人氏は〈告白〉と〈内面〉との関係について、「告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。問題は何をいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白という義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出すのである」(『日本近代文学の起源』昭55・8)と述べている。
注10 その意味では、先に引用した一見すると矛盾しているとも思える川端の言葉(『油』を「孤児としての私の私小説」としながらも「大方つくりごとであ」って「やはり修辞に過ぎなかつたのかもしれない」としていた)は、実は案外このような〈リアリティー〉の仕組みを、かなり本質的にとらえた発言だとも見ることができる。〈私小説〉というジャンルの相対化とともに、その事実性というものも、〈リアリティー〉の形式の問題としてとらえ直されるべきなのだ。
注11 『《論考》川端康成』(昭53・4)
注12 「川端康成・横光利一集解説」(『日本近代文学大系42』昭46・7)
注13 久米正雄は「『私』小説と『心境』小説」(文芸春秋社刊『文芸講座・第七号』大14・1)の中で、「私は第一に、芸術が真の意味で、別な人生の「創造」だとは、どうしても信じられない。(中略)そして只私に取つては、芸術はたかが其人々の踏んで来た、一人生の「再現」としか考へられない。(中略)結局、凡て芸術の基礎は「私」にある。それならば、其私を、他の仮託なしに、素直に表現したものが、即ち散文芸術に於いては「私小説」が、明に芸術の本道であり、基礎であり、真髄であらねばならない」と述べているが、『油』は、このような「私」の「一人生」の「再現」を可能とするパラダイム自体を相対化させる要素を持っていたと考えられる。
注14 第六次「新思潮」第二巻第一号(通巻第五号、大11・3)に発表。
注15 三十五巻本『川端康成全集』の「解題」に拠る。
注16 『転生』については、三十五巻本『川端康成全集』の「解題」に、「新思潮」創刊号(大10・2)の「同人雑記」に「川端康成は『転生』を書いてゐる最中だ」との記述があったことが解説されている。また、大正十年四月九日付の川端の日記(十六巻本『川端康成全集・第二巻』の「あとがき」に掲載されたもの)には、「〔第六次「新思潮」の〕三号には断然『石鹸』をやめ『転生』掲載に決心す」(〔 〕内引用者記入)との記述がある。
注17 「『招魂祭一景』に就て」(「文芸時代」昭2・2)
注18 明治41年4月13日から7月19日まで「読売新聞」に連載され、その後かなりの加筆訂正が行なわれた上で同年11月に易風社から単行本として出版された。
注19 『生』という作品は、これまでの文学研究においては「『生』の題材に対する苦痛もかなり大きかつた。(中略)殊に死んだ母親に対する忌憚なき解剖が中でも一番私を苦しめた。母親に無限の同情を持ち、又無限の涙をそそいだ私だけに、一番辛かつた。モウパツサンの所謂『皮剥の苦痛』――さういふものを細かに私は味はせられた」(『東京の三十年』大6・6)という作者の言葉や、「聊かの主観を交へず、結構を加へず、ただ客観の材料として書き表はすと云ふ遣り方、それをやつて見ようと試みたのです。単に作者の主観を加へないのみならず、客観の事象に対しても少しもその内部に立入らず、又人物の内部精神にも立入らず、ただ見たまま聴いたまま触れたままの現象をさながらに描く。云はば平面的描写、それが主眼なのです」(「『生』に於ける試み」明41・9)という当時花袋が提唱していた描写の理論に束縛され、もっぱら〈皮剥の苦痛〉や〈平面描写〉といった自然主義文学を枠付ける概念で取り囲まれ、解釈され続けてきた。しかし、実際には『生』という作品は、そのような概念では割り切ることのできない要素を備えているのであり、〈自然主義〉という領域そのものの相対化を含めて、これからの研究で再検討されるべき作品であると言える。
注20 引用は『日本近代文学大系19』(昭47・6)所収の本文に拠り、旧字体は適宜新字体に改めた。
(福井大学「国語国文学」第38号;1999.3)